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隠喩解釈の認知過程とコミュニケーション

辻 大介, 1995 『東京大学社会情報研究所紀要』50号, pp.21-38

1.問題の所在
2.隠喩はどのようにして隠喩と知られるか
3.隠喩的な意味と字義通りの意味
4.発話解釈の認知過程
5.隠喩解釈の認知過程
6.隠喩の『効果』
 補論
  / 文献 / Abstract

 隠喩(metaphor)は文学の専売特許ではない。それは、およそ文学的修辞とは無縁と考えられている法や自然科学の領域にもしばしば現れ、半ば暗黙の裡に大きな影響力を揮っている(松浦[1992]、Boyd[1993])。広告コピーや新聞の見出しなど、マス・コミュニケーションの場面に頻出することは言うまでもないし、政策プロパガンダの核となることもある(例えば「情報スーパーハイウエイ」)。また、パソコン通信などの新しい形態のコミュニケーションでも隠喩は少なからぬ役割を担っている(電子「会議室」・電子「掲示板」等々)。

 このように隠喩とコミュニケーションは密接な関係にあるにも拘わらず、従来の隠喩論はその関係を十分に射程に収めてこなかった。 当論では、隠喩の意味(解釈)が決してコミュニケーションと切り離して考えられるものではないこと(語用論の術語で言えば、隠喩の意味とは、コミュニケーションの場と相対的に独立に考えることのできる“文の意味”ではなく“発話の意味”であること)を示し、また、隠喩解釈の認知過程を考察することを通して、隠喩という問題のコミュニケーション論における再定位を図る。

1.問題の所在
(A1)  
君のクラスからマラソン大会にでるのは太郎君だっけ。彼は速いの?
(B1)  
太郎は亀だよ。
(A2)  
君のペット、太郎って名前だったよね。何を飼ってたんだっけ?
(B2)  
太郎は亀だよ。

 (B2)の「太郎は亀だよ」が文字通り〈太郎(という名前のペット)は亀である〉ことを意味しているのに対し、(B1)のそれは〈太郎(というクラスメート)は亀である〉ことを意味していない。この隠喩は通常〈太郎は走るのが遅い〉といったことを意味するものと解されるだろう。これはごくありふれた隠喩の一例だが、隠喩論の中心的問題はここにも十分に見て取ることができる。中でも特に重要と思われる三点を挙げておこう。

《1》 
(B1)と(B2)はことば面の上では全く同じであるにも拘わらず、一方は隠喩として解釈され、他方はそう解釈されない。では、ある事例が隠喩であることをいったい私たちはどうやって知るのか?
《2》 
(B1)と(B2)はことば面の上では全く同じであるにも拘わらず、一方は隠喩的な意味をもち、他方は字義通りの意味(literal meaning)をもつ。ということは、ことばは字義通りの意味の他に隠喩的な意味というものを併せもっているのか?
《3》 
(B1)を「太郎は走るのが遅いよ」という字義通りの表現に置き換えたとき、意味に違いはあるのか?隠喩は字義通りの表現に言い換えることができるか?

 以下、《1》の隠喩の検知(基準)の問題を皮切りに考察を進めていくことにしよう。

2.隠喩はどのようにして隠喩と知られるか

 「太郎は亀のようだ」。直喩の場合はこのように、それが比喩表現であることが「のよう」という言語的な標識でもって明示されている。隠喩にはこのような比喩標識が欠けており、それゆえにまさに『隠れた喩え』と呼ばれるのだった。ここから一つには、隠喩を比喩標識をとりさった直喩とみなす紀元前の古典修辞学以来の頑固な俗説が生まれてくるわけだが、この俗説自体は容易に反駁されるものだ。直喩から比喩標識を除いても隠喩になるとは限らない(「夜のような暗闇の中で」→「夜の暗闇の中で」)し、隠喩にそれを加えても直喩になるとは限らない(「爆発した怒り」→「?爆発したような怒り」)からである(橋元[1989:120f])。少し話が逸れたが、隠喩が比喩標識となる語彙を欠くのであれば、私たちは何をもってそれが隠喩であることを検知しているのだろうか?

 変形生成文法派の言語学者は、これに対し『統語論的な選択規則(selectional rule)への違反』をもって答えた(Matthews[1971])。「太郎は亀だ」という隠喩を例に、大まかに説明しておこう(詳しくはChomsky[1965=1970:74-148])。まず各々の語について選択素性(selectional feature)というものを考える。例えば、「太郎」には選択素性として〔+人間〕が、「亀」には〔-人間〕が割り当てられる。これによって、英語の場合であれば関係代名詞の選択(who/which)等が説明されるわけだが、これはまた主語‐述語の選択も制限するとされる。「太郎」という主語が〔+人間〕という素性をもつのに対し、述部にあらわれる「亀」という語は〔-人間〕であり、選択素性の不一致=選択制限(選択素性の共起制限)違反が生じている。ここから隠喩が検知されるというわけだ。

 だが、次のような例を考えてみよう。同じく太郎の足の速さが問われ、「太郎は亀じゃないよ」との返答があったとする。これもまた十分に隠喩たりうるが、ここに違反はない。また、悪酔いして元気のない友人を指して「山田が死んでるよ」といった隠喩が用いられることもしばしばあるが、ここにも選択規則違反はない(同じ文が字義通りの意味で用いられる場合もありうるのだから)。これらの例から窺えるように選択規則違反は隠喩の検知基準としては不十分なのである(より体系だった批判としては安井[1978:75-81]を参照)。

 語彙論のレベル・統語論のレベルに見当たらないとなれば、次に探索すべきは語用論のレベルである。ここで語用論者が最初にもちだしてくるのは、Grice[1975→1989]の有名な協調原則(Cooperative Principle)を用いた説明だろう。協調原則とは「〔コミュニケーションの〕参与者が遵守すると…予期されるようなおおよその一般原則を定式化」したものとされ(ibid.:26)、概略次のような諸格率の形で表される。

必要とされるだけの情報量のあることを述べよ。
偽りや根拠のないことを述べるな。
関係
関連のあることを述べよ。
様態
曖昧さを避け、簡潔に順序だてて述べよ。

まずは、この協調原則についてごく簡単に解説を加えておきたい。私たちはコミュニケーションに携わるとき、暗黙裡にこの原則に従っている。次のような会話を考えてみよう。「銀行に行って小切手を換金しなきゃいけないんだけど、今何時?」「4時だよ」。精確を期せば「午後4時12分15秒」であったとしても通常はそう答えない。「4時だよ」で、銀行は閉まっている時刻だという必要とされるだけの情報を伝えるには十分であり(量の格率)、この方が簡潔であるからだ(様態の格率)。が、この原則に表面的には違反するようなことが述べられることもある。「銀行に行って小切手を換金してきてくれるかい?」「もう4時ですよ」という会話を考えよう。この受け答えは、ことば面の上では相手の要求を応諾してもいないし拒否してもいない。したがって、関係あるいは量の格率に違反していることになる。しかし、これは言外に〈銀行は既に閉まっているので、要求には応じられない〉ことを意味しており、この含意がくみ取られることで関係・量の格率の表面的な違反は補償されるというわけだ。

 会話上の含意表現に対しこのような説明の仕方を可能にすることで、Griceの協調原則は語用論における重要な位置を占めるようになった。では、この協調原則は隠喩に対しても説明力を発揮するだろうか?Griceは質の格率に関わる例の一つに隠喩をあげている。

You are the cream in my coffee といった例は特徴としてカテゴリーの誤謬を伴っている。だから、言っているかのように話し手がみせかけていることが矛盾したことであるのは…自明の理ということになろう。それゆえ、話し手が伝えようとしているのはそのことではありえない。 (ibid.:34)

つまり、質の格率(≒偽りとわかることを述べるな)違反が隠喩の検知基準であるというわけだ。先に選択規則違反のない隠喩の例としてあげた「山田が死んでる」などは、確かにこれで説明できる。山田が死んでいないことが明らかにわかる場面でそう述べることは質の格率に抵触するからだ。だが、もう一つの例「太郎は亀じゃない」はどうだろうか。ここには何ら偽りは述べられていない。質の格率もまた、隠喩の検知基準としては不備があるのである(隠喩その他の修辞表現に関する質の格率を用いた説明に対しては、他にもWilson and Sperber[1981:159-164]、Récanati[1987:229]などで批判が投げかけられている)。

 さて、それならばここで協調原則を離れ去り、別の所に隠喩の検知基準を探索するべきなのだろうか?そうではない。以上で却下されたのは、質の格率のみを検知基準にたてることであって、協調原則そのものは必要な修正を加えた上で十分に検知基準たりうるのである。その修正版として現時点で最も適当と考えられるのは、協調原則を認知的観点から翻案した関連性原則(Sperber and Wilson[1986a=1993])だが、これについては後述することにして、今は協調原則の方で議論を続けておこう。

 隠喩の検知には、質の格率よりむしろ量の格率(あるいは関係の格率)の方が大きな関わりをもつのである。再び「太郎は亀じゃないよ」という例をとりあげよう。太郎の足の速さが問われているのに、この返答はことば面の上ではそのことに関する情報を何も与えていない(またそのことと無関係なことを述べている)。この量の格率(あるいは関係の格率)違反からそれが隠喩であることが知られるのである。隠喩の大半を占める明らかに偽りとわかる「太郎は亀だ」「山田が死んでる」といった例の場合は、まさしくそれが明らかに偽りとわかるものであるがゆえに、ことば面の上では何の情報ももたらさない。質の格率違反は、(みかけ上の)情報量の欠如を生むがゆえに、間接的に隠喩検知に関わってくるにすぎないのだ。

 以上、拙速な議論ではあったが、結論をまとめると次のようになる。隠喩の検知基準は、語や文のレベルではなくコミュニケーションのレベル(語用論のレベル)に求められるべきものである。そしてそれは、会話上の含意が検知される基準と同種のものである。

3.隠喩的な意味と字義通りの意味

 隠喩は字義通りのことを意味しない。「太郎は亀だ」という隠喩は〈太郎は亀である〉ことを意味せずに、別のことを意味する。では、その際の隠喩の意味とはどこからくるのだろうか?従来の所説の中には、隠喩的に用いられている語(以下、語Mと記す)を象徴と考え、それが象徴している意味をもって答えるものがある。「太郎は足が遅い」と述べる代わりに〈足の遅さ〉を端的に象徴する「亀」が置かれているだけというわけだ。この古くからある最も素朴な考え方を代置説という。他に代表的な所説としては比較説と相互作用説がある。前者は、隠喩表現中で字義通りに用いられている語L(「太郎」)と語Mの比較から両者の類似点(〈足の遅さ〉)が抽き出されると考える。後者は、語Lと語Mの意味が相互作用を起こし、そこから単に既存の類似点が引き出されるのではなく、新たに類似点が発見されるあるいは新たな意味が生成されると考える立場である。

 諸説の詳細な批判は橋元[1989:119-140]などに委ねるとして、ここでは一点に批判の的を絞ろう。それは、これらが考察の範囲を語や文単体に偏らせすぎており、隠喩の意味とコンテクストの関わりをほとんど省みることがない、という点である*1。次の例を考えてみよう。

(C1)  
次郎さんって痩せてるの?
(D1)  
次郎は豚だよ。
(C2)  
次郎さんって小食なの?
(D2)  
次郎は豚だよ。

(D1)と(D2)は文としては同一であり、またどちらも隠喩と解されるだろう。しかし、それらは同じことを意味してはいない。前者は〈次郎は太っている〉、後者は〈次郎は大食漢である〉といったことを意味するものと受け取られるだろう。代置説はこのことを説明できない。「豚」が二通りのことの象徴であるとしても、当該の隠喩表現に現れた「豚」がどちらの象徴であるかを聞き手はどうやって知るのだろう?この点を説明する方策を代置説はもたないのだ。比較説にせよ相互作用説にせよ事情は同様である。同じ語が比較されてあるいは相互作用しているのに、どうして異なった意味に解されるのか?このことは、その隠喩表現の用いられたコンテクストの違いを勘案しない限り、説明しようがないのである*2

 ことばの用いられるコンテクストに相関して決まる意味。これは語用論で扱われる発話の意味(utterance-meaning)に他ならない。それはコンテクストとは独立に言語的な規約(convention)によって決まる文の意味(sentence-meaning)とは位相を異にするものだ。隠喩の意味は前者の位相に位置するものなのである。従来の隠喩論にみられるような無用の混乱を招かないためにも、これらの位相ははっきり区別しておく必要がある。「日本からフランスに行くには二十万円かかります」ということばは、日本語の規約によってまさに〈日本からフランスに行くには二十万円かかる〉ということを意味する。これが文の意味だ(これはこれまで字義通りの意味と呼んできたものに等しい)。さて、それが「予算は十五万円で海外旅行したいんだけど、フランスには行けますか?」と客に尋ねられた旅行代理店社員の返事だったとしよう。この場合、このことばは〈その客はフランスには行けない〉ことを意味することにもなろうが、もちろんそのことばをその意味ととり結ぶような日本語の規約があるわけではない。特定のコンテクストで用いられたことば=発話の意味は言語的規約という観点だけからでは説明できないのである。このときの意味すなわち会話上の含意(conversational implicature)(Grice[1975→1989:24-26])の解釈に大きな役割を果たしているのはむしろ、フランスに行くには二十万円かかる→予算は十五万円である→予算が足りない→フランスには行けない、という一般的な推論能力だ。

 このような含意表現が一般に文の意味も保存している=字義通りの意味も伝えているのに対して、隠喩は字義通りの意味を伝えないという違いはある(Searle[1979:115])。しかしながら、隠喩についても同様の考え方は十分適用できるのである。(B1)の「太郎は亀だ」という隠喩を例にとろう。太郎が亀でないことは話し手・聞き手両者に予め明らかに知られていることである。それゆえに、その発話は文の意味(=発話の字義通りの意味)の位相では何の情報も伝えない。この情報量の欠如を補うために聞き手は推論過程に入る。聞き手の頭には既存知識として〈亀は足が遅い〉ことが記憶されていよう。(B1)の発話からこの記憶が活性化されて呼び出され、発話の字義通りの意味〈太郎は亀である〉と結びつけられるならば、〈太郎は足が遅い〉ことが演繹されることになる。

i) 太郎は亀である(発話の字義通りの意味より)
ii) 亀は足が遅い (記憶中の既存知識より)

iii)  太郎は足が遅い(iとiiから演繹された新情報)

ここで、発話の字義通りの意味はいわば仮の足場として利用されるのである。それは推論が終わりiii)の新情報が導出された途端に取り外される運命にある。しかし、それがなければこの推論は組み立たない。Davidson[1978=1991]の指摘する通り、隠喩(に用いられた文)もまた字義通りのことを意味しているのである。ただ、その意味は伝えられないだけなのだ。隠喩の意味はまさしくことばの「使用(use)の領域に属す」(ibid:265)、つまり発話(の意味)の位相に属す本性のものであって、文に字義通りの意味と隠喩的な意味の二通りがあるわけではないのである。

4.発話解釈の認知過程

 隠喩の解釈過程に関するここまでの粗描にもう少し丁寧に線を加えていこう。以下ではそのためにSperber and Wilson[1986a=1993]の関連性理論を援用する*3。そこでまず、その骨子部分だけをごく簡単に説明しておきたい。彼らによれば、人間のコミュニケーション・発話解釈には普遍的な認知原理『関連性原則(Principle of relevance)』がはたらいていると言う。これはGriceの協調原則の一つ、関係の格率を認知の観点から明確に規定するために提唱されたものだが、他の量・質・様態の格率を含め「Griceの諸格率が説明するすべてのことを、そしてより多くのことを明確に説明する」(Sperber and Wilson[1987:704])ものとされる。協調原則との異同についてふれている紙幅はないので省略するとして*4、乱暴に言ってしまえば、関連性原則とは次のような見込み(presumption)の制約の下に発話解釈の認知過程が進められるという原則である。

  1. その発話を心的処理にかけることによって得られる新情報は、その処理に要する心的労力に見合うだけの、十分なものであるはずだ
  2. その発話に使われている言語表現は、同じ情報を伝えうる他の言語表現に比べ、解釈処理に要する心的労力が最も少なくてすむものであるはずだ

 これでもって、まず先の旅行代理店の会話上の含意の例を説明し直してみよう。「フランスに行くには二十万円かかる」という音声はまず、一定の入力に対し一定の出力を返すモデュール形式(Fodor[1983=1985])の言語的解読(linguistic decoding)過程にかけられ、そこから〈フランスに行くには二十万円かかる〉という情報が抽き出される。これを新情報1とする。この処理に要する心的労力は小さいが、えられた新情報1は聞き手にとって十分なものではない(聞き手がフランスに行けるか否かに応える情報ではない)。そこで、それをもとに推論を進めるための材料となる既知の情報が探索されることになる。探索先は知覚や記憶から呼び出しうる旧情報群だ。この旧情報群がいわゆる発話解釈のコンテクストにあたる。このとき、最もアクセスしやすい、つまり呼び出すのに心的労力が最も少なくてすむ情報の一つに、客(聞き手)自らが直前の発話をなすときに活性化したばかりであるはずの〈旅行予算は十五万円である〉があるだろう。この旧情報と新情報1をもとに推論を進めることで、〈フランスには行けない〉という新情報2が導出されることになる。またさらには、〈予算に五万円追加すればフランスに行ける〉という新情報3も得られるはずだ。こうして、旧情報探索・推論に要する付加的な心的労力にも見合うだけの十分な新情報1~3が得られる=関連性原則の条件aを満たすのである。

 では、条件bの方はどうか?新情報2だけを伝えるのであれば「フランスには行けませんよ」という端的な返答の方が処理に要する心的労力は少なくてすむだろう。が、これは新情報1と3を伝え得ない。したがって、端的な返答は1~3を伝えるのに、聞き手側が要する心的労力が最も少ない言語表現ではないのである。

 さて、ここで次のような疑問を呈される向きがあるかもしれない。旅行代理店社員の発話によって〈フランスには行けない〉ですよという新情報2は、聞き手にはっきりと意識されることだろう。しかし、そこで聞き手が『残念、フランス旅行は無理か』とあっさり断念してしまい、新情報3〈あと五万円足せばフランスに行ける〉ことにまでは思い至らない場合も十分ありえよう。このような聞き手がそれと意識しないかもしれない情報をも発話の伝える情報として扱ってしまってよいのか、と。ならば、次のような状況を考えられたい。この聞き手が帰宅し、妻に今の予算ではフランス旅行はできないことを報告したとする。妻は「じゃあ、あといくら足せばフランスに行けるの?」と尋ねる。これに対し夫は五万円であると適切に答えることができよう。たとえ、代理店社員の返答を聞いた時点ではそのことを全く意識していなかったにせよ、である。したがって、新情報3もまたやはり伝えられていたと考えざるをえまい。当該の発話を聞いた時点で、少なくとも聞き手の頭の中に情報3に至る経路はできあがっていたのである。こういった、経路ができあがっているだけでそれと意識されにくい情報のことを顕在性(manifestness)の低い情報と呼ぶ(Sperber and Wilson [1986=1993: 45-54] 参照)。新情報3は、いわば弱く伝えられた(weakly communicated)顕在性の低い情報なのである。

5.隠喩解釈の認知過程

 隠喩解釈もまた、以上と基本的に同じ過程によっており、とりたてて特殊な過程によるわけではない。このことを(B1)の例に即してみていこう。

(A1)  
君のクラスからマラソン大会にでるのは太郎君だっけ。彼は速いの?
(B1)  
太郎は亀だよ。

(B1)の音声から言語的解読過程によって抽き出される情報は、話し手・聞き手両者にとって明らかに偽りとわかるものであり、それゆえ何の新情報も得られない。そこで、推論の材料となる旧情報の探索が開始される。ここで、注意の向けられる焦点となるのは〈太郎は亀〉という認知的不協和をひきおこす源となっている〈亀〉だろう*5。そこで〈亀〉に関する記憶中の情報群が呼び起こされることになる。この情報群は〈亀〉を中心に構造化されているものとして考えられる(Rumelhart [1977=1979: 238-81]・安西 [1994: 208-14] などを参照)が、中でも呼び出されやすいのは〈速さ〉という概念と結びついている領域の情報だろう。というのは、聞き手Aの頭の中ではそのときの興味関心から〈速さ〉という概念が既にある程度活性化されているはずだからだ。それによって〈亀は足が遅い〉という情報が記憶から呼び出される。そして、これをもとに推論が進められることで〈太郎は足が遅い〉という新情報が得られるわけである。

 「次郎は豚だよ」という隠喩の意味に(D1)と(D2)で差があることもこれで説明がつく。これらの発話が解釈されるときには、先行する発話(C1)・(C2)を考えてみればわかるように、それぞれ〈体格〉・〈食事量〉といった概念領域が既にある程度活性化されているはずだ。それによって、〈豚〉に関する記憶情報群の中でも、(D1)の場合は〈豚は太っている〉という情報が、(D2)の場合は〈豚は大食である〉という情報が呼び出されやすくなるだろう。この差が、それぞれの隠喩の意味の差をもたらすのである。

 さて、話を「太郎は亀だ」の例に戻そう。この隠喩が〈太郎は足が遅い〉という新情報(新情報1とする)のみを伝えるものであるとすれば、一つ問題が生じる。それを伝えるには、いわゆる字義通りの発話「太郎は足が遅い」の方が、聞き手側の処理に要する心的労力が明らかにより少なくてすむため、関連性原則の条件bに反するのだ。これはどういうことなのだろう?実はこの隠喩は、他にも字義通りの発話からは伝えられないいくつかの情報を“弱く伝えている”と考えることができるのである。〈亀〉という概念を出発点にして探索しうる記憶中の旧情報群には、〈亀は足が遅い〉という情報の他に、例えばイソップ物語の兎と亀の寓話といった情報の小塊があるだろう。そこにはまた、〈亀はペースを落とさずに走り続ける〉〈亀は最終的に勝つ〉といったような情報が含まれているだろう。これを材料に推論が進められるならば、〈太郎はペースを落とさずに走り続ける〉といった新情報2や〈太郎は最終的に勝つだろう〉といった新情報3が得られることになる。字義通りの発話からは伝えられえないこういった類の一連の新情報が、弱くではあるけれどもまさしく伝えられており、余計にかかった分の心的労力に見合うものなのだ、というのが当論の主張である。

 この主張は一見したところ奇矯に思えるかもしれない。聞き手Aがよほど勘ぐるタイプの人物でない限り、(B1)の発話を聞いて“そうか、太郎は遅いけれどもペースを落とさずに走り続けるタイプのランナーで、最終的には勝つかもしれないのだな”とまでは、まず思い至らないだろうからだ。しかし、AとBの間で続けて次のような会話がなされたとしてみよう。

(A3)  
じゃあ、太郎君が勝つ見込みはあまりないね。
(B3)  
いや、太郎は亀だから勝つと思うね。兎と亀の話のようにね。

「太郎は亀だから勝つ」と聞いた瞬間には、Aは「だから」という接続の仕方に違和感を覚えるだろう。しかし、続く「兎と亀の話のようにね」という発話を聞いた後には、この違和感はおそらく消えているだろう。この発話によって、「太郎は亀」という隠喩が弱く伝えていた・けれどもそれと意識されてはいなかった情報2〈太郎はペースを落とさずに走り続ける〉が気づかれ、「だから」による接続を違和感のないものにする(太郎はペースを落とさずに走り続けるから勝つ、という風に)のである。

 ここで次のような反論が考えられよう。情報2は「兎と亀の話のようにね」という発話がなされたときに初めて伝えられたのである。それ以前に「太郎は亀」という隠喩がたとえ弱くにであれ伝えていたものではない。その隠喩が使われていた時点で伝えていた情報は〈太郎は足が遅い〉という情報1のみであり、情報2はその隠喩に「兎と亀の話のようにね」という発話が追加されて初めて伝えられるものである、と。仮にそうだとしよう。「太郎は亀」という隠喩が〈太郎は足が遅い〉ことのみを伝えるのならば、それをいわゆる字義通りの表現「太郎は足が遅い」に置き換えても不具合は生じないはずだ。そこで、AとBの会話を次のように変更してみる。

(A1')  
君のクラスからマラソン大会にでるのは太郎君だっけ。彼は速いの?
(B1')  
太郎は遅いよ。
(A3')  
じゃあ、太郎君が勝つ見込みはあまりないね。
(B3')  
いや、太郎は足が遅いから勝つと思うね。兎と亀の話のようにね。

下線部に注目されたい。これを聞いてAは「太郎は亀だから勝つ」と聞いたときと同じように違和感を覚えるだろう。しかし、この違和感は続く「兎と亀の話のようにね」を聞いた後でも消えないはずだ*6。よって、「太郎は亀だ」という隠喩を「太郎は足が遅い」という字義通りの表現に換えることはできない。ゆえに、「太郎は亀」という隠喩はそれが発話された時点で情報1以上の情報を伝えていたと考えざるをえないのである(たとえそれが事後的にしか気づかれない性格の情報であるとしても*7)。

6.隠喩の『効果』

 「太郎は亀だ」という隠喩は、〈亀〉という概念を中心に構造化された情報群を利用することによって、〈太郎は足が遅い〉という情報以外にも、余計にかかった心的労力に見合うだけの一連の新情報を弱く伝えるものである。別の言い方をすれば、〈亀〉を中心に構造化された情報群を〈太郎〉にシフトすることで、一連の新情報への経路を切り開くのである*8(このことを大まかに図式化すれば図1のようになろう)。

図1

図1 隠喩解釈における概念構造のシフト
(Fig.1 Conceptual Schema Shifting in Metaphor Interpretation)

 隠喩がときに大きな説得力を発揮するということも、この構造化された情報群のシフトという観点からよく見通せるように思われる。次のような例を考えてみよう。E・Fは三郎の会社の同僚である。

(E1)  
この間、私の課に移ってきた三郎君って、人の気に障ることを平気で言う人ね。
(F1)  
三郎ってやつは子供なんだよ。

もちろん三郎は成人であり、Fの発話は隠喩として解釈されるものとする。ここでは〈子供〉に関する情報群が〈三郎〉にシフトされることになろう。それによって、〈三郎は人の気持ちを忖度できない〉〈三郎には社会常識がない〉〈三郎はわがまま〉〈三郎は無邪気〉……といった一連の新情報があるものは強くあるものは弱く伝えられる。このとき、それら一連の情報が、Eの三郎に関する既存の知識・情報群によく整合するなら、つまり“そういえば三郎は上司に転任の挨拶をしなかった・残業を気にせず遊びに行った・無邪気な言動が多い……”等のいわゆる思いあたるフシが多くあるなら、この「三郎は子供」という隠喩はEにとって大きな説得力をもつことになるだろう。また、このことによって、シフトされた〈子供〉に関する情報群の構造が〈三郎〉に根づく──その構造を軸にしてEの三郎に関する知識・情報群が再構造化される──こともありうるだろう。

 このとき、「三郎は子供」という隠喩は、Eに三郎(のふるまい)に関する理解を促す効果をもつ、という言い方もできるかもしれない。しかし、〈子供〉に関する情報構造がシフトされ、〈三郎〉に関する情報群の中でその構造に沿った部分が強調されるということは、裏を返せば、その構造に沿わない部分の情報はないがしろにされることであるとも言える。Lakoff and Johnson[1980=1986:12]の言葉を借りて言えば、隠喩には「ある概念の一側面を他のものを通して体系的に理解させる」効果がある一方で、その「概念の他の側面を隠してしまう」効果もあるように思われるのである。この点について少し別の角度から考えてみたい。ある評論家が下のような論説を掲げたとしよう。

戦後五十年、日本はめざましい経済成長を遂げた。そして現在では、発展途上国に多額の援助を行い、各国の経済成長を育む側にまわっている。いまや日本は国際社会における大人である。大人であるからには、日本も各地の紛争を調停する国際的な軍事活動にも積極的に参加すべきなのである。

ここにはやはり、隠喩によるある種の「誘導作用」が認められるのではないだろうか。談話の中の「大人」を「経済大国」に置き換えてみられたい。「経済大国であるからには、軍事活動にも積極的に参加するべきだ」。この結論は置き換える前のものより強引に感じられるだろう。だが、日本が経済大国であること以外に、その結論を支える根拠として談話中に明示的に述べられていることが特にあるわけではない。前半部分の前提と後半部分の結論の懸隔を、その間に挿入された「日本は大人」という隠喩によって〈日本〉にシフトされた〈大人〉の情報構造が、半ば暗黙の内に架橋しているのである*9

 隠喩の『効果』は、このようにコミュニケーション論にとって極めて重要な問題をはらんでいる。しかし、従来のコミュニケーション論者は概ねこのような効果を看過し、それを添えものの飾りぐらいにしか扱ってこなかった。また、隠喩はそれ自体、コミュニケーションと切り離しては十全に論じることのできない極めてコミュニケーション論的な問題なのである。求められるべきは、いささか大仰な言い方をすれば『隠喩論のコミュニケーション論的転回』だろう。筆者としては当論がわずかなりともその転回に裨益することを願うばかりである。

〔補論〕

 本稿の主張の要諦は以上に尽くされているが、『隠喩の意味』をその隠喩表現によって弱く伝えられる情報(群)とみる考え方が未だなじみの薄いものであることを鑑みるなら、やや説明不足のきらいがあるかもしれない。そこで以下では、論の流れを乱すことを懸念して本論ではふれなかった点について、二点ほど説明を補っておくことにしたい。

 一.本論5章では、隠喩によって弱く伝えられる情報というときの“弱く”という点を明確化するため、あえて「太郎は亀だ」によって弱く伝えられる情報として〈太郎はペースを落とさず走り続ける〉等といったものを言上げした。これに対し、むしろその隠喩は〈亀は足が遅い〉という旧情報を呼び出す結果として、単に〈太郎は足が遅い〉ということ以上の〈太郎の足の遅さは亀のような足の遅さだ〉という情報(仮に情報1'とする)を伝えるのではないか、こちらの方がその『隠喩の意味』と考えるにふさわしいのではないか、という疑問があり得よう。この指摘は半分正しく、半分誤っている。

 正しいのは、単に〈足が遅い〉という情報だけでなく、その足の遅さの程度についての情報1'が弱く伝えられているという点である。このことにより、単に「太郎は足が遅い」という字義通りの表現が伝えうる以上の情報が伝えられている=関連性原則に則している、と確かにみなせよう。

 誤っているのは次の二点である。第一に、情報1'をもってその『隠喩の意味』として事足れりとするわけにはいかないことだ。〈太郎はペースを落とさず走り続ける〉といった情報2なども、やはり『隠喩の意味』とみなしうるのである。この点については、本論中で既に述べたことであるので繰り返さない。もう一点は、情報1'の把握の仕方についてである。〈太郎の足の遅さは亀のような足の遅さだ〉というのは、単に隠喩を直喩におきかえた表現で情報1'を記述しているにすぎない。仮に亀の歩みが時速100mぐらいだとすれば、それは〈太郎の足の遅さは時速100mである〉ということになろう。これを「太郎は亀だ」という隠喩の意味とみなしうるだろうか。結論から言えば、情報1'はさらなる推論を進める過程で一時的な材料とされる(最終的には棄却され、聞き手の知識・情報体系の中には組み込まれない)ものにすぎないのである。これを材料に推論を進めることで、聞き手は例えば〈太郎はマラソン大会で最下位になるだろう〉といった新情報を抽き出しうるだろう。こういった新情報(群)に至る推論の経路が開かれることこそが、情報が“弱く伝えられる”ということなのであり、まさに当論が隠喩の意味(解釈過程)と考えたところのものなのである*10

 二.やはり論の流れを乱すことを懼れ、本論では限定された種類の隠喩(橋元[1989:146-50]の分類によるなら体言述定型の例)しか取り上げなかった。もちろん、あらゆる種類の隠喩の解釈過程を説明できる用意が整っているわけではないが、例えば用言述定型(同じく橋元の分類による)の隠喩の解釈などは、基本的には本論で述べたと同じ過程によるものとして説明できるように思われる。用言述定型とは、下の(H1)の「爆発する」のような動詞・形容詞などの用言を用いた隠喩のことだ。

(G1)  
四郎君に一つ用事を頼みたいんだけど、彼のご機嫌はどうかしら?
(H1)  
今にも怒りが爆発しそうな状態だよ。

〈怒り〉といった非物質的な範疇に属するものが〈爆発する〉ものではないことは、通常自明のことであり、したがってこの(H1)の発話は、ことば面の上では聞き手に何の情報ももたらさない。が、〈爆発する〉という概念からは容易に〈爆発するものは危険である〉という旧情報が活性化されうるだろう。これと〈四郎の怒りは爆発しそうな状態である〉をもとに推論が進められることで、〈四郎の怒りは危険な状態である〉といった新情報が得られることになる。さらにこれが〈危険なものの持ち主には近づかない方がいい〉ことと結びつけられるなら、〈四郎には近づかない方がいい〉などといった新情報も得られるだろう。これらの新情報がもたらされることで、(H1)の発話は関連性原則を満たすことになる。用言述定型についても、とりたてて特殊な解釈過程を措定する必要はないのである。

文献
Abstract

   Metaphor plays an important role, not only in literature but in the discourse of law or natural science which people regard as divorced area from such a poetic language. It also takes a large place in mass communication such as advertising, and it is sometimes used as a key term of political propaganda (for example, "information super highway" coined by the vice-president of America). These facts prove that metaphor has a close relation with communication, but metaphor has been studied without considering communication in which it is used.
   In this essay, I argue that as long as ignoring the communication in which metaphor is used, we never explicate what metaphor means and how metaphor is interpreted. In terms of pragmatics, the meaning of metaphor is not 'sentence-meaning' that is independent of the context of communication, but 'utterance-meaning' that depends on it. So the appropriate theory for investigating metaphor must be provided by pragmatics which studies language use (i.e. communication), not by any study which investigates language separately from its use.
   There are three main problems on metaphor, which will be solved in this essay. Consider such a conversation as below.

A1)
What fellow is your neighbor John?
B1)
John is a wolf.
A2)
I remember your grandpa keeps a strange pet. The name is ... John, I remember. But I forgot what animal he keeps...
B2)
John is a wolf.
Problem-1 :  
B1 has no difference with B2 in expression, but B1 is perceived as an example of metaphor and B2 as a literal. What tells us that B1 is a metaphor and B2 is not?
Problem-2 :  
Does the expression "John is a wolf" have two kinds of meanings (i.e. metaphorical meaning and literal meaning) ?
Problem-3 :  
Does B1 have difference with the literal expression "John is dangerous" in meaning? Can we replace a metaphor with some literal expression without changing its meaning?

Daisuke TSUJI, 1995
Cognitive Process of Metaphor Interpretation in Communication
The Bulletin of the Institute of Socio-Information and Communication Studies, the University of Tokyo, No.50, pp.21-38

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