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アイロニーのコミュニケーション論

辻 大介, 1997 『東京大学社会情報研究所紀要』55号, pp.91-127

§1.はじめに~問題の所在
§2.アイロニーの検知と効果をめぐる予備的考察
§3.“言及的発話”説の批判的検討
§4.“擬装的発話”説と“仮人称発話”説の批判的検討
§5.言語行為の構造~アイロニーという言語行為の解明に向けて
§6.意図された不適切言語行為としてのアイロニー
  / 文献 / Abstract

§1.はじめに──問題の所在

 パソコン通信の電子会議室やインターネットのニュースグループでは、次のような発言が『フレーミング(flaming)』とよばれる感情的なやりとりの口火を切ることがある。

<1>
ABC12345 山田花子 村上春樹について
私は村上春樹は一流の作家だと思うのですが、みなさんはどう思いますか?

XYZ98765 川本太郎 RE:村上春樹について
村上春樹ですか?まさに彼こそ超一流の作家でしょう!(爆笑)

この太郎のコメントは、その字面とはうらはらに、花子の発言への反意表明としてとらえられよう。言うまでもないが、これが「アイロニー(irony)」と呼ばれるレトリックの一事例である。本稿の目的は、アイロニーという語法の本質が、どのようなものであるかを語用論の観点から明らかにすることにある。そこでまずは、問題の所在をつまびらかにしておこう。

 “irony”または「反語」について、手近にある辞書を繙いてみると、次のような定義が載っている*1(下線は引用者による)。

irony  
the expression of one's meaning by using words of the opposite meaning in order to make one's remarks forceful, e.g. that will please him (used of something that will not please him at all).   (The Oxford Paperback Dictionary, 3rd ed.)
反語  
本来の意味とは反対の意味を含ませる表現法。…つまらない時に「うん、面白いね」と皮肉な口調で言うような場合も含む。 (岩波国語辞典第四版)

アイロニーとは、文面と「反対の意味」を伝える表現法である、というこれらの定義は、巷間に広く受け入れられている伝統的な見解を表したものと言えるだろう。古代ギリシャのクインティリアヌスの『弁論術教程』、それ以後の修辞学の教科書にも、ほぼ同様の定義が散見される(佐藤[1992:236ff]参照)。しかし、アイロニーを単に文面とは反対の意味を伝えるものとするこの見解には、多くの問題点がある*2

 第一に、文面とは反対の意味というものが考えにくいアイロニー表現がある、という点である(Gibbs[1986])。「私の大切な花瓶を壊してくれて、本当にありがとう」というアイロニーを考えてみよう。「ありがとう」の反対とはいったい何なのか。まさか「ごめんなさい」ではあるまいし、「ありがたくない」だとも考えにくい(それは「ありがたい」の反対ではあるかもしれないが、「ありがとう」の反対ではないだろう)。このようなアイロニーが存在する以上、アイロニーという発話形態の本質を、単に文字通りの意味の反対を伝えることだとみなすわけにはいかない。ならば、アイロニーの本質は、どのようなものなのだろうか。これを、アイロニーの《本質》に関する問題と呼んでおこう。

 第二に、《本質》の問題とも深く関わるが、アイロニー特有の《効果》に関する問題があげられる。この点について、橋元[1989:49]は次のように述べている。

通常、「太い足だね」というより、アイロニカルに「細い足だね」と言ったほうが、より失礼で強いダメージを与える。このことは橋元・村田・廣井[1985]の行った実験でも検証されている。たとえば、母親が泥んこ遊びをしてきた息子に対し、「どうしたの。そんなによごれた顔をして」と言った場合とアイロニカルに「どうしたの。そんなにきれいな顔をして」と言った場合とでは、言われた当人の顔は、後者の方が、よごれがひどいであろうと解釈されるのである。

つまり、アイロニーは直截的な(文字通りの意味を伝える)表現よりも強いインパクトをもたらしうるのである。また、アイロニーはしばしば独特の嫌味さや滑稽感をもつことがある。こうしたアイロニー特有の効果について、それを単に文面とは反対の意味を伝える修辞法とみなす旧来の見解は、何の説明力ももたない。

 第三に、アイロニーは、専らネガティブな内容・印象を聞き手に伝えるものである、という点があげられる。無知をけなす「君は博識だね」というアイロニーはあっても、博識をほめる「君は無知だね」というアイロニーはない。文面と反対の意味を伝える修辞法がアイロニーであるのならば、前者の対称として後者のタイプもあっていいはずだろう。しかし、実際にはこのような《非対称性》が存在するのである。

 第四に、アイロニーには、それがアイロニーであることが明言されると効果が失われる、という性格がある。これについて、安井[1978:158]は次のように述べている。

これから述べることはメタファーとして聞いていただきたいというときには、metaphorically speaking を用い…ることができる。けれども、「以下述べることはアイロニーとして申し述べるのですが」という意味で、ironically speaking ということはできない。…こういう点をもう少し考えてゆくと、結局は、アイロニーが備えていなければならない最も基本的な条件の一つに突き当たることになる。アイロニーは、アイロニーであるためには、アイロニーであることが、あからさまに分かってはならないということである。…アイロニーの存在を決定的に明示している標識をもっている表現は、そのために、アイロニーとしての痛烈さを失っていることになる。

これはそもそもは、Griceが1967年に行った有名なウィリアム・ジェイムズ記念講義“Logic and Conversation”の第III講における指摘だが(§4参照)、一言で言えば、アイロニーがアイロニーらしい効果をあげるためには暗示的(implicit)でなくてはならないということである。こうした《明言による失効》という特異性がなぜアイロニーにはみられるのか。アイロニーを単に文面と反対の意味を伝えるものとする見解は、この問題について何ら解答の方向性すら示しえない。

 さて、以上のような《本質》《効果》《非対称性》《明言による失効》という四つの問題に対して、部分的に解答を与えることのできる新しいアイロニー論が、近年になっていくつか提出された*3。しかし、それらの論もこれらの問題すべてに解答することには成功していない。以下では、その主だったものとしてSperber&Wilson[1981]の『言及説』、Clark&Gerrig[1984]の『擬装説』、橋元[1989]の『仮人称発話説』をとりあげ、これらを順次批判的に検討した後に、本稿なりのアイロニー論を提出することにする。

 だが、その前に次節では、予備的な二つの作業をすませておくことにしたい。その一つはアイロニーの《効果》をめぐる従来の議論の混乱・誤解の整理であり、もう一つは《明言による失効》というアイロニーの特質から派生する問題──アイロニーがその存在を決定的に明言する標識を伴わないのであれば、当の発話がアイロニーであることを聞き手は何をてがかりにどのように知るのか、という問題──に対して、解答の方向を示しておく作業である。

§2.アイロニーの検知と効果をめぐる予備的考察

 まずは、アイロニーの《効果》をめぐる従来の議論の混乱を整理する作業の方からとりかかろう。アイロニーが直截的な表現よりも聞き手に強いインパクトをもたらしうるものであるという主張に対して、しばしば次のような反論がなされることがある。

しかし、実際は、皮肉のほうが直截的な表現よりも、相手に与える心理的ダメージが少ない場合も大いに考えられる(Gibbs[1994:371])。たとえば「きれいな顔だね」と皮肉を込めていう場合と、「みにくい顔だね」と直接的にいう場合を比べてみよう。皮肉の場合には、たとえそれが皮肉と分かっていても、「冗談でしょ」とか「嘘ばっかり」と切り換えすことが可能である。つまり、ここで問題となっているのは、発話者の態度であり、それを〈皮肉〉と取るか〈冗談〉あるいは〈嘘〉と取るかの境界線はあいまいなのである。そして、このあいまい性が、皮肉を当てられた当事者を心理的に「救う」ことがある。ところが、「みにくい顔だね」は、直接に、そして決定的に「言い切って」いるわけであり、あいまい性という逃げ道は閉ざされてしまう。
(深谷・田中[1996:253])

参考までに掲げておくと、この文中で引用されているGibbs[1994:371f]が述べているのは次のようなことだ(下線は引用者)。

話し手は次のようなコミュニケーション上の諸目的(goals)を満足させるためにアイロニーを用いる。それは、発言にウィットをもたせることや、周囲の緊張をほぐすこと、文字通りの表現が用いられた場合よりも相手の体面(face)が保たれるようにすることである。アイロニーは、家族や友人や職場の同僚間で社会的関係を保つ上で、重要な社会的機能を果たすのである。

 確かにアイロニーには、こうした“相手の社会的体面を表だって脅かすことの回避”という《効果》を認めることができる。しかし、この社会的対人関係上の効果は、そもそもBrown and Levinson[1978→1987]の論述にもみられるとおり、アイロニー特有の効果ではないということにまず注意をうながしておきたい。例えば「今日の試合は誰かさんのまぬけなプレイのおかげで負けてしまったよ」という“誰か”を特定しない曖昧表現によるあてこすりにも、決定的に言い切っていないという点で、同様の効果が認められるだろう。

 さてこうした「曖昧性」は、文字通りの意味を伝えないアイロニーであれ、文字通りの意味を伝えるあてこすりであれ、対人関係上の「逃げ道」を用意する。そして、その一次的な対人関係上の効果は二つの副次的な心理的効果をうむ。一つは、先の深谷・田中の指摘にもあったように、アイロニーやあてこすりの向けられた当事者がとりあえず表面的には体面を取り繕うことができることで「救われる」という心理的効果だ。もう一つは、「言い切って」しまわないことがうみだす嫌味感である。アイロニーやあてこすりの向けられた当事者は、確かに表面的にはあげつらわれているわけではないが、実質的にはあげつらわれた状況にさらされる。そして、そのあげつらいに正面きって反論できない状況におかれる。「私は『みにくい顔だね』なんて一言も言ってないよ」「まぬけなプレイをしたのは君だなんて一言も言ってないよ」などと、話し手もまたその逃げ道を活用できるからだ。このことがアイロニーや曖昧表現によるあてこすりに独特の嫌味さをもたらす。

 これら二つの心理的効果は逆のベクトルをもつものだが、排反的なものではない。「みにくい顔だね」という直截的な表現は、「きれいな顔だね」というアイロニーより、確かに当事者にとって救いのないものだろうが、そこに嫌味さは感じられまい。アイロニーはその対人関係上の効果により、こうした二種類の心理的効果を(同時に)もたらしうるのである。

 ここで改めて問題としたいのは、アイロニーの《効果》が、こうした対人関係上の効果の副産物としてうみだされる二つの効果につきるのかどうか、単なる曖昧表現(を用いたあてこすり)と同等の効果をもつにすぎないのかどうか、という点である。この点を検討するための素材として、まずは戯曲「ジュリアス・シーザー」の中の有名な一シーンをとりあげてみることにしよう(下線は引用者による)。

<2>
ここに私は、ブルータス、その他の諸君の許しをえて──
と言うのも、ブルータスは公明正大な人物であり、
その他の諸君も公明正大の士であればこそだが──
こうしてシーザー追悼の辞をのべることになった。

シーザーは私にとって誠実公正な友人であった、
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そしてそのブルータスは公明正大な人物だ。

シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰った、
その身代金はことごとく国庫に収められた、
このようなシーザーに野心の影が見えたろうか?
貧しいものが飢えに泣くときシーザーも涙を流した、
野心とはもっと冷酷なものでできているはずだ、
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そしてそのブルータスは公明正大な人物だ。

諸君はみな、ルペルクスの祭日に目撃したろう、
私はシーザーに三たび王冠を献げた、それを
シーザーは三たび拒絶した。これが野心か?
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そして、もちろん、ブルータスは公明正大な人物だ。

(小田島雄志訳『シェークスピア全集Ⅲ』白水社、p.174より)

これは、シーザーの暗殺者ブルータスを告発するために、アントニウスがローマ市民に対して行った演説の一部である。この中には「ブルータスは公明正大な人物」だという発言が4度にわたって繰り返されている。最初の発言はほぼ文字通りに受け取られようが、繰り返されるごとにその発言は徐々にアイロニカルな色合いを強め、最後の発言に至ってはまず間違いなくアイロニーとして受けとめられよう。この「ブルータスは公明正大」だというアイロニーは、アントニウスの他の発言内容(ブルータスの暗殺したシーザーに野心の影などみられなかったこと)と好対照(コントラスト)をなし、そのことによってまさに“劇的”な効果をあげている。その効果は、アイロニーの餌食(victim)とされたブルータスに対する嫌味感とは別種のものであり、また「ブルータスは卑怯な人物だ」などといった直截的な表現や「誰かさんは卑怯な人物だ」などといった曖昧表現を用いたあてこすりでは、あげることのできない効果だ。

 このような効果は、アイロニーのもつ対人関係上の効果から派生する二次的効果というよりむしろ、アイロニーの意味解釈の過程から直接もたらされる認知的効果とみるのが適当だろう。§1に引いた橋元ら[1985]の実験で、直截的に「そんなに汚れた顔をして」と述べられるよりアイロニカルに「そんなにきれいな顔をして」と述べられる方が汚れがひどいだろうと解釈されるという結果がえられたのも、おそらくはこの認知的効果によるものと考えられる。

 以下、本稿では、専らこの認知的効果の方を──対人関係上の効果とそこから派生する二つの心理的効果を無視するわけではないが──アイロニー特有の《効果》としてとりあげることにしたい。

 次に、《明言による失効》というアイロニーの特質から派生する問題に、解答の方向を与える作業にうつろう。その派生的問題とは、次のようなアイロニーの《検知》に関する問題である。

 アイロニーは、本来、それがアイロニーであることを決定的に聞き手に知らしめるような言語標識(linguistic marker)を伴わない。ある発話がアイロニーであることを聞き手に知らしめる十分条件となるような特定の言語標識は、アイロニーの本性からして存在しないのである。だとすれば、それがアイロニーであることを聞き手はどこから・何をもって検知するのだろうか。

 この問題については、主に二通りの解答がこれまでのアイロニー論の系譜の中で提示されてきた。一つは、発話の文字通りの意味とその発話のおかれたコンテクスト・状況との齟齬という言語的(extra-linguistic)な要因をとりあげるものであり、もう一つは、『反語信号(irony signal)』という言語付随的(para-linguistic)な要因をとりあげるものである。

 前者を重視する立場をとる論者には、例えばJ.R.Searleがいる。彼の著作にアイロニーを直接取り扱ったものはないが、隠喩を扱った論文の中で簡単にアイロニーについても触れており、「ごくおおまかに言って、アイロニーを作動させているメカニズムとは、もし文字通りにとるとその発話が明らかに状況に対して不適切(inappropriate)となる、ということである」と述べている(Searle[1979:113])。

 また、会話上の含意(conversational implicature)の分析で知られるP.Griceも、この立場に含めていいだろう。彼は、会話を律している暗黙的な原則として、量・質・関係・様態の四つの格率(maxims)からなる『協調原則(Cooperative Principle)』というものを想定し、発話が言外の意味(会話上の含意)をもつのは、それらの格率が表面的に違反された場合であると考えた。その際にアイロニーについては、質の格率「偽りだと思うことや十分な証拠を欠くことを言うな」が表面的に違反された事例にあたるとしている(Grice[1975→1989:34])。例えば、じめじめした雨の日が続いている状況で「本当に気持ちのいい天気が続くね」というアイロニーが発せられた場合を考えてみよう。その状況下でその発話を文字通りに受けとると、話し手は明らかに偽りと思われることを言っていることになってしまう(状況に対して不適切な発話になってしまう)。そこで、そうした質の格率違反からアイロニーであることが知られ、言外に“いやな天気が続くね”という意味がくみとられることになる、というのである。

 しかし、この発話の文字通りの意味とコンテクスト・状況との齟齬というアイロニーの検知基準は、アイロニーの場合だけでなくメタファーや言いまちがいの場合にもあてはまってしまう。つまり、この基準では、アイロニーである場合とメタファーや言いまちがいである場合の区別がつかないのである。そのため、安井[1978:165]のように、アイロニーがそれと知られるための条件(基準)を、文字通りの意味とは反対の場面状況(コンテクスト)の存在に修正する論者があらわれた。だが、この修正された条件にあてはまらない種類のアイロニーも数多く残されている。本稿冒頭にとりあげた<1>の事例がまさにそれだ。再掲しておこう。

<1>
ABC12345 山田花子 村上春樹について
私は村上春樹は一流の作家だと思うのですが、みなさんはどう思いますか?

XYZ98765 川本太郎 RE:村上春樹について
村上春樹ですか?まさに彼こそ超一流の作家でしょう!(爆笑)

村上春樹が一流作家であるということに反対するような社会通念が一般的に共有されているとは考えにくいし、また、太郎と花子が互いに見ず知らずの間柄で、太郎がアンチ村上春樹派であるといった個人的コンテクストが全く共有されていなかったとしても、この発言は花子に十分アイロニーとして受け取られうるだろう。

 では、このとき、この太郎の発言をアイロニーとして知らしめているものは何なのだろうか。それは末尾に付された「(爆笑)」以外にはありえまい。試しにこれを取り除いてみると、太郎の発言はおよそアイロニーとは思えないものになる。音声による会話であれば、実際の笑い声や微笑がその役をはたすわけだ。これが『反語信号』と呼ばれるものであり、他には、ウィンクや咳払い・強声・特別な語調・おおげさな表現・語彙の反復・引用符などがあげられる(Weinrich[1966=1973:105f]参照)は。しかし、ここで改めて注意をうながしておきたいが、末尾に「(爆笑)」と付されていてもアイロニーでない文章が数多くあるように、反語信号の随伴は、当該の発話がアイロニーであることの十分条件になるわけではない。それは、発話の文字通りの意味とコンテクスト・状況の不協和という要因とともに、アイロニー成立の必要条件にとどまるのがせいぜいなのである。

 さて、このようにアイロニー成立の十分条件となる単一特定の規準がなく、反語信号や状況の複合的な勘案を要するのであれば、アイロニーをそれと知ることはかなり困難な作業になるように思えるだろう。加えて、反語信号の種々雑多さをみても、そこに一貫した共通の性質があるとは考えられまいし、このことがさらにアイロニーをそれと知ることの困難さを増すように思える。だが、それに反して実際には、多くの場合、私たちはさほど苦労することなく、直ちにアイロニーの存在をかぎつけることができる。また、同じ表現がアイロニーとして解釈される場合と文字通りに解釈される場合とを比べた言語心理学の実験でも、前者が特に後者より時間がかかるということはなく、むしろ前者の方が短時間ですらあるという結果が報告されている(Gibbs[1984:290])。こうしたアイロニー検知のすばやさは、どのように説明しうるのだろうか。

 これに対し、定延・松本[1997:307]は「心内にアイロニーというカテゴリがあるからである」とし、「アイロニーというカテゴリが心内にあってはじめて、われわれはアイロニー解釈をゼロから作らずに、手がかりを通じてアイロニーというものに思い当たるだけでよくなり、解釈が速くなる」のだと説明する。本稿も後述するようにこれと似た立場をとるが、定延・松本の議論には二つの不備がある。一つは、彼らの論法でいけば、すばやい解釈あるいは認識をされうるもののすべてが「心内に××というカテゴリがあるから」と説明されてしまい、いたずらに心内のカテゴリが増えていく可能性があるという点だ。これでは、“ヒヨコが親鶏の後を追うのは親鶏の後追い本能があるからだ”などと無闇に“××本能”を仮定していく説明図式とさほど変わるところがない。二つめは、アイロニーをそれと知るための単一特定の十分条件となる手がかりがないことにより、たとえ「手がかりを通じてアイロニーというものに思い当たるだけでよい」としても、それだけではやはり種々雑多な手がかりの複合的勘案に相当の時間がかかるのではないか、という反論を許してしまうことである。それに再反駁するだけの用意が定延・松本の論には見当たらない。

 本稿は、発話のアイロニー性を「カテゴリ」よりむしろ「パターン」としてみる立場を提出することにしたい。つまり、アイロニーの検知をいわゆる「パターン認識」に類比的な認知プロセスとみるのである。例えば、日本人らしい顔のパターン認識というものを考えてみよう。私たちは、日本人らしい顔とそうでない顔を、髪や瞳や肌の色・鼻の高さ・形状・骨格の形態等々の諸要素をてがかりに区別している。しかし、それらの諸要素をすべて逐一チェックしてそう判断しているわけではない。それら諸要素が織りなす一つの顔パターンをゲシュタルト的に瞬時にして認識しているのである。また、日本人らしい顔を決定づける(つまり日本人らしい顔の十分条件となりうる)単一特定の要素も存在しない。例えば、仮に髪の色が黒ではなく白髪であったとしても、十分に日本人らしい顔は存在するだろうし、他の要素についても同様である。日本人らしい顔のパターンとは、諸要素がまさしく「家族的類似」(Wittgenstein[1953=1976:69f])をなして、織り重なり合いながら構成されているのである。

 アイロニーについても同様に、各種の反語信号やコンテクスト・状況との不協和が家族的類似をなして発話にアイロニカルな相貌(contour)を与え、その相貌が瞬時にパターン認識されるのだと考えれば、アイロニーがそれと知られるのにとりたてて時間を要しないことにも十分な説明がつく。また、アイロニー性が強く感じられる発話もあれば・アイロニーであるかどうかが微妙な発話もあるということも、日本人らしさが強く感じられる顔もあれば・日本人かどうか微妙な顔もあるということと相同的なものとしてとらえうる。

 そこで次に問題となるのは、“そのアイロニカルな発話の相貌パターンが《本質》的にどういった相貌パターンであるのか”ということだろう。この点についてある程度明確な解答を提示しうるアイロニー論が、前節の最後に挙げておいた①Sperber and Wilson[1981]・②Clark and Gerrig[1984]・③橋元[1989]の諸説である。これらの説によれば、アイロニーの本質的相貌はそれぞれ①『言及性』・②『擬装性』・③『仮人称性』にあるということになる。次節と次々節では、それら三つの見解の妥当性を順次批判的に検討していくことにしたい。

§3.“言及的発話”説の批判的検討

 アイロニーを“言及”的発話の一種であるとする『言及説(Mention Theory)』は、Sperber and Wilson[1981]において初めて提出された。この言及説には、現在に至るまでに、彼らの提唱する発話解釈の一般理論である『関連性理論(Relevance Theory)』に基づいた展開が加えられているが(Sperber and Wilson[1986=1993],Wilson and Sperber[1992])、基本的な主張に変更はない*4

 彼らの論が依拠するのは、言語の“使用(use)”と“言及(mention)”という二局面の区別である。例えば、次の(I)は「三角形」という語が使用されている事例にあたり、(II)は「三角形」という語が言及されている事例にあたる。

(I)
三角形は三辺をもつ
(II) 
「三角形」は三文字からなる

(I)において、「三角形」という語・記号が三角形という実際の対象を表象(represent) しているのだとすれば、(II)の場合には、その語・記号の表象作用は自らに折り返されて当の記号そのものを表象している(Récanati[1979=1982])、あるいは、その語・記号は自らを呈示(present)している(Searle[1969=1986:133-139])、と考えることができる。

 Sperber and Wilsonは、アイロニーをこのような“言及”という言語用法の一変種とみるのである。では、アイロニーとはどういった種類の“言及”なのか。Sperber and Wilsonの所論に沿って順に説明していこう。

 言及という言語用法については、ひとまず“直接的”“間接的”という区別をたてることができる(Goodman[1978=1987:67-98])。これは、いわゆる直接話法と間接話法の別に類比して考えるとわかりやすい。一例を示そう。

太郎: 
次郎は君に何て言ったんだい。
花子: 
(i)  「君を愛している」と。
(ii) 私を愛している、と。

(i)では、次郎の発したことばそのものが直接言及されているが、(ii)ではむしろ、そのことばの表す意味内容が言及されていると考えられる。(i)のような直接的言及は、そのことばの表している意味内容を理解していなくても行いうる。例えば、日本語を知らない外国人でも「kimi-wo-aishite-iru」という音を復元することは十分に可能だろう。一方、(ii)のような間接的言及は、意味内容を理解していないと行いえない性質のものである。

 Sperber and Wilsonは、このような間接的言及について、さらに“報告的(reporting)”と“エコー的(echoic)”という下位区分をたてる(Wilson and Sperber[1992:59])。報告的言及とは、その言及を行う主目的が、聞き手に誰かの言ったことの内容に関する情報を与えることにあるものである(上の花子の発話(ii)のような場合)。それに対し、エコー的言及とは、むしろその内容に関する話し手の心的態度を開示する(express)ことを主眼とするものであり、下の花子の発話にみられるような言及がこのタイプにあたる。

太郎: 
君とはもう別れたいんだ。
花子: 
(悲しげに)私とはもう別れたい…。

 Sperber and Wilsonは、アイロニーをこうした“エコー的言及”の中でも、特に言及された内容に対して「否認的(disapproval)」態度を開示する種類のものと考えるのである(ibid.:60)。一例をあげよう。

<3>
 
太郎: 
俺ってホントに天才だよ。
次郎: 
(馬鹿にした笑みを浮かべつつ)ホント、君は天才だね。

次郎は、太郎の発話内容をオウム返しに述べて言及しつつ、馬鹿にした笑みような笑みを浮かべることでその発話内容に対する否認的態度を示し、それによって自分の発言をアイロニーとして成立させる、というわけだ。言い換えるなら、①基層的なコミュニケーション(ground-communication)のレベルで発話の文字通りの意味内容を呈示し、②メタ-コミュニケーション(meta-communication)のレベルでそれに対する否認的態度を意図的に呈示する、という形の重層的コミュニケーションとしてアイロニーをとらえるのである*5

図1

図1 Sperber and Wilsonのアイロニーのとらえ方

 さて、このようなSperber and Wilsonの考え方──否認的態度を開示するエコー的言及こそがアイロニーの《本質》であるとする考え方──に則すならば、また、その考え方を筆者なりに敷衍して解釈するならば、§1であげたアイロニーの《効果》と《非対称性》の問題には、とりあえず次のような解答をよせることができる。

 《効果》の問題について:
 先の<3>「君は天才だよ」というアイロニーを例にとろう。それは“太郎は天才だ”という題述に対する話し手の否認(的態度)を聞き手に伝えるものである。この点で、そのアイロニーの意味は「『太郎は天才だ』とはバカバカしい」などといったような複文的な否定──題述に関するメタ題述──の形に類比して考えられるべきであり、その文字通りの意味の単純な否定形「太郎は天才ではない」──単文的な否定・対象に関する題述──などに類比されるべきものではない。この位相差が、直截的な表現(文字通りの意味の単純な否定形)とアイロニーを隔てるまず第一の点である。この点に加えて、アイロニーはメタ題述が非言語的に、つまり分節化されない形で行われるという特徴をもつ。そのことにより、「…とはバカバカしい」などと言語化・分節化されたメタ題述よりも、意味解釈の面において広がりをもつ。“バカバカしい”だけでなく“滑稽ですらある”等々の解釈の広がりをもたらしうるわけだ。また、「…とはバカバカしく滑稽ですらある」などとくだくだしく述べるよりも効率的にそのことを聞き手に伝えることができる。アイロニー特有の(認知的)効果は、こうした意味解釈面における広がり・エコーの「反響(reverbaration)」(Wilson and Sperber[1992:76])によってもたらされるものである*6

 《非対称性》の問題について:
 否認的な態度を開示するエコー的言及の対称は、「是認(approval)」的な態度を開示するエコー的言及ということになろうが、当然ながらこれは、発話の文字通りの意味内容を却下(cancel)する態度ではありえない。例えば、否認的態度を開示する<3>のようなエコー的言及=アイロニーに対して、同じことを述べつつ是認的な態度を開示する次の<3'>のようなエコー的言及を考えてみればよい。

<3'>
 
太郎: 
俺ってホントに天才だよ。
次郎: 
(感心してうなづきながら)ホント、君は天才だね。

アイロニーの非対称性の所以はここに求められるのである。

 このように、アイロニーを(エコー的)言及の一種とみるSperber and Wilsonの見解は、旧来の見解──単に文面とは反対の意味を伝える修辞とみる見解──では答えを見出しえなかった問題に対しても一定の説明力を有しており、アイロニー論の面目を一新させるものであった。

 しかしながら、その見解には次のような問題点がある。

 第一に、《明言による失効》の問題が未解決のままに残されている。「これは皮肉(アイロニー)として言うのですが」という前置きは、なぜアイロニーらしさを──つまり意味解釈上の広がりを──損なうことになるのか。この前置きは、「…とはバカバカしい」などといったことばを付け加えるのとは違って、意味解釈上の広がりを制限してしまう本性のものではない。実際、隠喩(metaphor)──これも直截的表現に比べて意味解釈上の広がりをもたらす修辞法の一つだが(辻[1995])──の場合には、「これは喩え(メタファー)として言うのですが」という前置きを加えることでその認知的効果つまり意味解釈上の広がりが格別に損なわれるということはないのである。この点に関する説明がSperber and Wilsonの論には決定的に不足している。

 第二に、《非対称性》について、先のような説明が成り立たない種類のアイロニーが存在するということがある。アイロニーには、Cutler[1974:119]の指摘するような二類型を区別することができる。一つは“反唱型アイロニー(provoked irony)”であり、<3>のようにあげつらいの対象となる先行する発話(者)が存するタイプのものである。もう一つは“自生型アイロニー(spontaneous irony)”であり、次の<4>のように、先行する発話を指示・参照(reference)することなくそれだけでアイロニーとして成立するタイプのものである。

<4>
(何日も続くじめじめした長雨にうんざりしながら)
いやはや、気持ちが晴れわたるような天気が続くねえ。

 さて、反唱型アイロニーについては、その文字通りの意味内容は「よい意味」であっても「わるい意味」であってもよく、さらにいえばそうした「よしあし」の評価を含まないものであってもかまわない。例えば、次の<5>は文字通りの意味内容が「わるい意味」の場合であり、<6>は「よしあし」の評価を含まない場合である。

<5>
 
太郎: 
花子ほど利己的な人間はいないよ。
次郎: 
ホント、花子ほど利己的な人間はいないよね、
老人介護のボランティアに毎日熱心に通っているくらいだものね。
<6>
 
太郎: 
君の探している本は赤い表紙の本だよ。
次郎: 
(しばらくしてその本を見つけだしたが、その表紙は実は青だった。それを太郎に見せながら)
君の言うとおり、真っ赤な表紙の本だったよ。

こうしたアイロニーの場合、それの伝えるネガティブな内容・印象というのは、先行する発話(者)に関するものであり、題述された対象──<5>であれば“花子”、<6>であれば“探していた本”──に関するものではない。むしろ題述された対象に関しては、<6>のように「よい意味」を伝えることもありうるのである。そして、このような反唱型アイロニーの場合に限っていえば、その《非対称性》について先に見たような説明が成り立つ。先行する発話(者)に対する否認(的態度)こそが、この型のアイロニーのもつネガティブさの源泉にほかならず、それを是認(的態度)に代えるとそもそも当該の発話はアイロニーにはなりえない、と考えられるからだ。

 しかし、自生型アイロニーについては事情が異なる。Cutler[ibid.:119]も指摘しているとおり、「自生型アイロニーの場合には、当該の発話の意味論的性格に関して厳しい制約がある──すなわち、その文字通りの意味が賞賛的(approbatory)でなくてはならないという制約である」。裏返して言えば、文字通りの意味が賞賛的でない自生型アイロニーというのは基本的にありえないのである。例えば、<4>の対称となる次の<4'>のような自生型アイロニーを考えることにはおよそ無理があるだろう。

<4'>
(何日も続くさわやかな快晴に喜びながら)
いやはや、気持ちが滅入るような天気が続くねえ。

このように自生型アイロニーについては──反唱型アイロニーとは違って──題述された対象に関して「よい意味」が伝えられることはありえない。つまり、反唱型アイロニーとは異なった位相に《非対称性》があらわれるのである。だが、Sperber and Wilsonの所論にしたがえば、<4'>のような自生型アイロニーもありうることになってしまう。発話の文字通りの意味内容(この場合“気持ちの滅入るような天気が続いている”こと)に言及し、それに対する否認的態度を開示すれば、<4'>のような発話も十分にアイロニーとなりうるはずだからだ。

 第三に、そもそも自生型アイロニーの場合には、間接的言及という語用法が可能なのかどうか疑わしい、ということがある。間接的言及とは、そもそもは先行する誰かの発話の内容を再現するものである。反唱型アイロニーの場合には、確かに言及の対象となる先行発話が存するが、自生型アイロニーの場合にはそれがない。例えば、自分たちの企画したイベントが失敗に終わり、閑散とした会場を片づけながら「いやはや、大成功だったね」というアイロニーが発せられたとしよう。この自生型アイロニーは何に言及しているというのか。それに対しSperber and Wilson[1981:312]は、次のような強弁を行う。

行動の基準やルールは文化的に規定されており、一般的に知られていて、想起しやすいものであるため、常にエコー的言及に利用できる。…失敗を前にして「大成功だったね」とアイロニカルに述べることが常に可能なのは、一つの行為の行きつく先としては成功が期待されるのがふつうだからである。

つまり、自生型アイロニーの場合に言及されているのは、ある文化や社会において広く共有されている一般的期待や通念である、というのである(あわせてSperber and Wilson[1990:152]を参照)。この説明の妥当性はかなり疑わしい。出所した受刑者がアイロニーとして「刑務所というのはまったくもってすばらしい所だよ」と述べた場合を考えてみよう。Sperber and Wilsonの説明図式にしたがえば、このアイロニーが言及しているのは“刑務所はすばらしい所である”という一般的期待あるいは通念ということになってしまう。そんな期待や通念が私たちの文化・社会において一般的に共有されているなどとは到底言えまい。言及される先行対象が想像できないこのようなアイロニーの存在は、言及説の妥当性を根幹から疑わせるものだろう。

 こうした問題点をかかえるSperber and Wilsonの言及説に対し、その批判として提出されたのが、Clark and Gerrigの擬装説と橋元の仮人称発話説である。そこで次に、これら二つの説の吟味にとりかかることにしよう。

§4.“擬装的発話”説と“仮人称発話”説の批判的検討

 Clark and Gerrig[1984]は、言及説を取り扱った論文(Jorgensen, Miller and Sperber [1984])に批判的にコメントする中で、アイロニーの《本質》を発話の擬装性という点に求める見解を提出した。彼らの『擬装説(Pretense Theory)』のヒントとなったのは、アイロニーに関するGriceの次のような論述である(Grice[1978→1989:54])。

隠喩を用いるときに「これは喩えとして言うのですが(to speak metaphorically)」という前置きを加えても別に不自然(inappropriate)ではないだろうが、「これは皮肉(アイロニー)として言うのですが、彼はすばらしい人だ」と述べるのは、どこかしらかなり奇妙なものだろう。アイロニカルであるとは、擬装(ふり)をする(pretend)ということにほかならず(その語源が示しているように)、そして、擬装とはそれと知られることが求められる一方で、それが擬装であると明言されて(announce)しまうならば、その効果が損なわれてしまうものである。 〔下線は引用者による〕

ここからも窺えるように、擬装説は、言及説が未解決のままに残していた《明言による失効》という問題に対して次のように答えることができる。例えば、劇中でハムレットの役をしている──すなわち、ハムレットの擬装(ふり)をしている──俳優のセリフ「生きるべきか死ぬべきか」のことを考えてみよう。そのセリフがハムレットを擬装した発話であることが明言されてしまうと、つまり「これはハムレットのセリフとして言うのだが、生きるべきか死ぬべきか」などと述べられると、それはもはやハムレットのセリフらしからぬ奇妙なものになってしまい、ハムレットのセリフとしての意味合い・効果を失ってしまう。したがって、アイロニーの《本質》が擬装的発話ということにあるのならば、「これはアイロニーとして言うのですが」と付言することはその擬装性を明言することに等しく、それがアイロニーの効果を失わせてしまうのも当然のことと考えられよう。

 それでは、アイロニーとは何を擬装している発話なのだろうか。Clark and Gerrig[1984:122]によれば、それは概略、次のような擬装であるという。

 雨にうんざりした人の発した「いやはや、気持ちが晴れわたるような天気が続くねえ」という自生型アイロニーを再び例にとろう。この場合、話し手Sは聞き手Aに向かって“ぼんやりして目の前がよく見えていない人物(=仮想的な話し手S')が、天候の状態について何も知らない人物(=仮想的な聞き手A')に話している”という擬装(ふり)・一人芝居をしているのだ、とClark and Gerrigは考える。その擬装の目的は、じめじめした長雨を「気持ちが晴れわたるような天気」と呼ぶ仮想的話し手S'のトンチンカンさを、あるいはそれを素直に受け取る仮想的聞き手A'のまぬけさを呈示することにある。つまりアイロニーを、バカなS'がバカなA'に話している擬装(ふり)をして、S'やA'のバカらしさ(injudiciousness)を演じ示す発話であると考えるのである*7

 反唱型アイロニーの場合は、仮想的話し手S'が実在の先行発話者に重ね合わされることになる。そして、先行発話の語り口調(tone of voice)を「誇張したり戯画化したり」(ibid.:122)することで、バカバカしい話し手S'として先行発話者を演じ示すのである。

 さて、この擬装説の観点によるならば、アイロニー特有の《効果》はバカバカしい仮想的発話者S'を擬装することによってうみだされるものと考えられることになる。しかし、バカバカしい仮想的発話者S'を擬装したものとみなせる発話であっても、アイロニーとは呼び難い事例がある。これが擬装説の第一の問題点である。

 次のような状況を想像してもらいたい。成績優秀な太郎がテストでイージーミスをし、それを見た友人が「おまえ、ばかになったんじゃないの?1+1はいくつだ?」と問いかけたとする。それに対して、太郎は戯けた声の調子で「う~ん、難しいなあ、3かな」と答えたとしよう。この発話は、太郎が1+1を3と答えるバカな人物の擬装(ふり)をしたものとみなすことができるし、それらしい効果もあげている。Clark and Gerrigの論によるならば、この太郎の発話は十分にアイロニーとしての資格を備えているはずだ。しかし、それは通常の感覚ではアイロニーとは呼び難い。むしろそれは、ある種の冗談(joke)と分類すべきものだろう。

 さらに言えば、バカな仮想的発話者を擬装することにアイロニーの《本質》があるのなら、「気持ちが晴れわたるような天気が続くねえ」というアイロニーの語り口調は戯けたものや誇張されたものでなければ、バカらしさを演じ示すことはできまい(道化の身振りが一般的にそうであるように、また漫才のボケ役の口調が一般的にそうであるように)。しかし、ため息混じりに語られたとしても、それは十分にアイロニーとして成立するし、このときには印象の面においてもバカらしい仮想的発話者が擬装されているようには到底思えまい。

 第二の問題点は《非対称性》に関するものである。§3の<4'>の事例を再考しよう。

<4'>
(何日も続くさわやかな快晴に喜びながら)
いやはや、気持ちが滅入るような天気が続くねえ。

こうしたアイロニーがありえない理由を、Clark and Gerrig[1984:122]は、Boucher and Osgood[1969]の『ポリアンナの仮説』によって説明する。それは、人には常にものごとを楽天的によい方向に考えようとする傾向があるという仮説である。無知蒙昧な人物ほどこの傾向が強く、アイロニーにおいて仮想されるS'とはまさにこうした無知蒙昧な人物であり、<4'>のようにさわやかな快晴を「気持ちが滅入るような天気」とする発話の場合には、この傾向に反するS'を仮想することが求められるためそうした仮想は困難である。したがって、<4'>のようなアイロニーは成立しにくい。およそこのような説明をClark and Gerrigは行う。

 だが、この説明にはいくつかの難がある。まずは、ポリアンナ仮説が文化普遍的に妥当するかどうかという点だ。これについてSperber[1984:134]は、次のように批判している。

Clark and Gerrigの所論によれば、アイロニーの発話者はバカで無知蒙昧(ignorant)な人物の擬装(ふり)をしているわけであり、こうした人物は世界がバラ色に見えるようなメガネをかけているのだという。…だが、それならば文化差の問題が生じるのではないだろうか。無知蒙昧なアメリカ人はみな幸せな楽天家かもしれないが、フランスの場合、無知蒙昧な人々は不平家として有名である。彼ら彼女らはいたるところに不平不満の種を見いだすが、しかしフランスでもアイロニーはアメリカと同様の非対称性を示すのである。

こうした文化差の問題を措くとしても、はなはだしく度を超してものごとを悪く考えようとする人物はやはり、常にものごとを楽天的に考えようとする人物を同じくらい、バカな人物として想像しやすいはずだ(「杞憂」の故事が示すように)。とすれば、「こんな難しいテストで満点をとるなんて、あいつはなんてバカなんだ」というアイロニーもありうることになるだろうが、こうしたアイロニーは実際にはやはりおよそ見当たらない。

 続いて、橋元[1989]の『仮人称(かにんしょう)発話説』の検討に移ろう。この説は、Clark and Gerrigの擬装説と基本的な見解を共有している。それは“発話者(話し手)の仮想”という観点からアイロニーをとらえる、という点である。橋元は「アイロニーの正体」(本稿の言い方でいえばアイロニーの《本質》)を次のようなものとみなす。

自分以外の仮想の人物に視点を移し、その人物に「話し手」の役割を荷わせて発話行為を遂行する場合が存在するとして、それを今かりに「仮人称発話」と呼ぶことにする。ただし、この場合の「視点」とは…発話行為の人称設定にかかわる「発話視点」を意味するものとする。アイロニーの正体とは、結局、字義通りの発話が可能な立場の人間に視点を移し…陳述行為を行うという一種の「仮人称発話」なのだというのが本稿の結論である。 (橋元[1989:86f])

 橋元の仮人称発話説が最も説明力を発揮するのは、自生型アイロニーの《効果》についてである。例えば、「きれいな顔だね」という自生型アイロニーが、「きたない顔だね」という直截的な表現に比べて、聞き手により大きなインパクトを与えるという事実は次のように説明される(ibid.:87f)。

 図2の(ⅰ)は、発話者Aが対象Oについて、文字通りの意味で「きれいな顔だね」と述べた場合、(ⅱ)は同様に文字通りの意味で「きたない顔だね」と述べた場合、(ⅲ)はアイロニーとして「きれいな顔だね」と述べた場合のそれぞれの状況を、「きれい-きたない」という評価レベルを軸に表したものである(横点線は平均的評価水準を表す)。

図2

図2 自生型アイロニーの場合の仮人称発話のしくみ

(ⅰ)と(ⅱ)はどちらも、発話者が自ら思うところの「平均的評価水準」に基づいて(発話視点を定めて)対象Oに対する評価を行った発話である。しかし、この評価水準は人によって変わりうるものだから、大半の人が“きたない”と評するだろう対象Oに対しても、“きれい”という評価を下すような人物Xが想像しうる。そこで、

Xの視点に立てば、Oに関して「きれいな顔だね」といっても「字義的にも」妥当である。しかし、実際の発話者AがXはおろか、Oも見下しうる立場にあること(すなわち(ⅱ)の状況であること)が明瞭であれば、AとOの「距離」とOとXの「距離」を足した分だけ現実との乖離が生じることになる。その「距離」は、(ⅱ)の場合よりさらに拡大されている。…それ〔=(ⅲ)〕が同趣旨の直截的表現〔=(ⅱ)〕より大きなインパクトを生ぜしめるのは、今述べたような乖離の距離感に基づく。 (橋元 [1989: 88f])

このように、自生型アイロニーの《効果》については、言及説・擬装説以上に明快な説明を与えることができるのである。

 では、反唱型アイロニーの場合はどうだろうか。これは「発話視点を相手に仮設した仮人称発話そのものと理解できる」(ibid.:90)とされる。

その種のアイロニーでは…他者の人称を借りて発話しているのである。教壇で授業する教師の背後で彼に気づかれぬように口の動きや手の動きなど一挙一動をまねると間違いなく見物する生徒に大ウケする。意図的な他人の動作の模倣(mimicry)は、ほとんどの場合、傍観する第三者からみて滑稽感を生む。その際、滑稽なのは動作そのものではなく、まねされた対象である。こだま的アイロニー〔=反唱型アイロニー〕の起源はこのミミクリーにあると考えられる。 (橋元 [1989: 90f])

つまり、反唱型アイロニーに関しては、仮人称発話説は擬装説とほぼ同じ立場をとるのである。したがって、擬装説と同様の批判が成り立つ。反唱型アイロニーの《効果》が先行発話者の模倣(ミミクリー)に由来するのだとすれば、そのアイロニーの語り口調は戯けや誇張を含むものであるはずだろう(大ウケをとった生徒のものまねにはそうした戯けや誇張が含まれていたはずだ)。しかし、既に述べた通り、戯けや誇張などを含まない口調で語られたとしても十分にアイロニーとして成立する場合がありうるのである。

 また、模倣が滑稽感を生みだすためには、それが上手な模倣であることが求められる。下手なものまねは滑稽ではあるまい。だが、前節でみた<3>のような反唱型アイロニーは、はたして「上手なものまね」と言えるだろうか。

<3>
 
太郎: 
俺ってホントに天才だよ。
次郎: 
(馬鹿にした笑みを浮かべつつ)ホント、君は天才だね。

「俺って」が「君は」に変わっており、終助詞も異なるし、語順も違う。次郎が太郎の発話を上手にまねているとは思えないどころか、そもそもまねをしているとすら思えまい。この点において、橋元の反唱型アイロニーについての説明は説得力を失う。これが仮人称発話説の第一の問題点である。

 では、反唱型アイロニーについても、自生型アイロニーと同様の説明が可能だろうか。<3>に限って言えば、図2のような説明図式がそのままあてはまるようにも思える。しかし、反唱型アイロニーについてもこの説明図式を適用するならば、前節でみた<5>の反唱型アイロニーに関して(以下に再掲)、次の図3のような見方をすることを許さざるをえなくなる。

<5>
 
太郎: 
花子ほど利己的な人間はいないよ。
次郎: 
ホント、花子ほど利己的な人間はいないよね、
老人介護のボランティアに毎日熱心に通っているくらいだものね。

図3

図3 仮人称発話説の問題点:事例①

したがって、自生型アイロニーについても、このような「よい意味」で用いられるアイロニーがありうることになってしまう*8。これは自生型アイロニーの《非対称性》に反している。これが第二の問題点である。

 第三の問題点は、図2のような説明図式によると、直截的な表現よりむしろ小さなインパクトしか生じないことになってしまう自生型アイロニーが存在するということである。友人宅を訪れた客がそこの飼い犬に手を噛まれ、苦々しげに次の(a)(b)(c)のように述べた場合をそれぞれ考えてみよう。(a)は文字通りの意味でなされた発話、(b)と(c)はアイロニーとしてなされた発話だとする。

<7>
 
(a) 
君の犬はしつけが悪いね。
(b) 
君の犬はホントにしつけがいいね。
(c) 
君の犬はほんの少しだけしつけが悪いようだね。

これら(a)(b)(c)に先の説明図式をあてはめると図4のようになる。

図4

図4 仮人称発話説の問題点:事例②

 (b)のアイロニーの場合には、A─Oの距離とO─Xの距離の和(A─X)は、(a)の直截的表現におけるA─Oの距離よりも大きくなるので、その分だけ大きなインパクトを生じるのだ、という説明もうなづける。一方、(c)のアイロニーの場合には、A─Xの距離は、(a)のA─Oの距離よりも小さい。したがって、このアイロニーは直截的な表現よりも弱いインパクトしか生じないということになる。しかし、これはどう考えても実際の印象に反していよう。こうした緩叙法(控えめ表現 litotes, understatement)的なアイロニーは、仮人称発話の説明図式にうまくあてはめることができないのである。

§5.言語行為の構造──アイロニーという言語行為の解明に向けて

 以上でみてきたように、Sperber and Wilsonの『言及説』、Clark and Gerrigの『擬装説』、橋元の『仮人称発話説』、いずれもアイロニーにまつわる三つの問題──《効果》《非対称性》《明言による失効》──のすべてに対して、完全に整合的な説明を与えるには至っておらず、したがってアイロニーの《本質》を十分にとらえきれていない。

 しかしながら、これらの説は全面的に誤っているわけではない。それら三説が根本的な部分で共有している見解は適正なものであり、ただその見解を適正に展開することに失敗したのだというのが、言及説・擬装説・仮人称発話説に対する本稿の最終的な評価である。この節では、次節においてその見解の適正な展開を試みるための準備作業を行う。

 三説に共通する根本的な見解とは何か。まずはこの点を明らかにしておこう。

 それは、アイロニーというコミュニケーションを、重層性の相においてとらえる視座である。言及説は(§3でも述べておいたように)アイロニーを、①基層レベルでは文字通りの意味を伝えつつ、②メタレベルでそれに対する否認的態度を伝える、という重層的なコミュニケーションとみなす。また、擬装説と仮人称発話説は、①文字通りの意味の発話を行う仮想的発話者S'・仮人称Xを基層レベル上に仮設し、②メタレベル上に位置する実際の発話主体S・Aはそれを擬装しているに・発話視点を仮託しているにすぎないことを呈示する、という重層的なコミュニケーションとしてアイロニーをとらえる。

 アイロニーがこうした重層性の相にその《本質》をもつものであるならば、それを単に発話の文字通りの意味の否定・反対を伝えるものとみなす──つまり基層的レベルのみにおいてとらえる──旧来の見解が、《効果》《非対称性》《明言による失効》という問題のいずれにも答えられないのは、当然のことと言えよう。

 さて、このようなコミュニケーションの重層性を考察する上で重要な示唆をもたらすのが、橋元[1995]が提唱した「汎人称発話」──仮人称発話はそのバリエーションの一つとされる──という考え方である。

 橋元の「汎人称発話」論は、J.L.Austin[1962=1978]に端を発する言語行為論(Speech Act Theory)の理論的拡張を企図したものである。そこでまずはAustinとその後継者J.R.Searleによる言語行為論の基本構図を簡単におさえておくことにしよう。

 Austin は、言語を専ら命題(proposition)という形で分析してきた従来の哲学に対し、言語を行為(act)という形で分析する新たな視角を拓いた。われわれの日常生活において用いられることばは、「その本は赤い」などのように事実との対応関係(真偽)の問いうる命題の相においてとらえきれるものばかりではない。例えば「その本を取ってください」という発言に対し、その真偽を云々することはおよそナンセンスだろう。そのことばは“依頼”という行為をなすものにほかならず、行為について真か偽かという問いをあてはめるのはカテゴリーの錯誤(category-mistake)であるからだ。

 続いてAustinは、言語行為に次のような三種類の行為側面を区別する。まず、かくかくしかじかのことばを述べる(saying)という行為であり、これを発語行為(locutionary act)という。次に、そう述べることにおいて(in saying)なされる行為──上の例でいえば“依頼”──であり、これを発語内行為(illocutionary act)という。そして、そう述べることによって(by saying)、結果的に“相手に本を取らせる”“相手を面倒がらせる”などの行為をなすことになる。これを発語媒介行為(perlocutionary act)という。

 発語内行為については、それがどのような行為であるかを「私は~と依頼します(I request that...)」などのような、慣習的(conventional)な定型発話形式によって指定しうるという特徴がある。一方、発語媒介行為の場合には、例えば「私はあなたに本を取らせます」と言ったところで、相手が実際に本を取ってくれなければ“本を取らせる”という行為になりえないことからもわかるように、そうした指定を行うことができない。

 しかしながら、こうした定型発話形式によって行為の指定を行ったとしても、その発話が直ちに当該の発語内行為として発効するわけではない。死刑を“宣告”するという発語内行為を例に考えてみよう。しかるべき資格を備えていない者(例えば裁判官ではなく傍聴者)が「被告に死刑を宣告します」と述べたところでそれは死刑の宣告にはなるまい。また、劇中の裁判官役が被告役にそう述べたとしても、実際に死刑の宣告が行われたことにはなるまい。これらは、死刑の“宣告”という発語内行為が遂行されたとするには「不適切(infelicitous)」であろう。発語内行為の適切な遂行には「満たされるべき必要条件」が存するのである(Austin[ibid.:26f])。

 Austinを継いで、この「発語内行為…が首尾よく、かつ、欠陥をもつことなく遂行されるための…必要十分条件」の定式化を試みたのが、Searle[1969=1986:97-128]である。Searleはそれを『命題内容条件』『事前条件』『誠実性条件』『本質条件』の四種に大別している。

 Searleによれば、発語内行為の一般形式は、それがどのような種類の発語内行為か──“依頼”なのか“命令”なのか──を特定する《発語内の力(force)の表示部分F》と、どのような内容をもつ発語内行為か──依頼内容は“聞き手が本を渡す”ことか“聞き手が募金する”ことか──を特定する《命題内容の表示部分p》から成る、

F(p)

というものとされる(ibid.:54)。

 命題内容条件とは、当該の発語内行為を遂行する上でpに加えられる制約のことであり、例えば“依頼”という発語内行為の場合には、p は聞き手の将来の行為を述定するものであることが必要とされる。事前条件とは、その名の通り、当該の発語内行為が遂行される事前前提となるような制約のことで、“依頼”であれば、話し手が聞き手にはp を行う能力があると信じていること、頼まれなければ聞き手はp をするかどうかわからないことなどが挙げられる。誠実性条件とは、当該の発語内行為を遂行しようとする話し手の心理・態度に加えられる制約であり、まじめに(seriously)“依頼”を行おうとしているかどうか、言い換えれば、聞き手がp をすることを話し手は本心から(sincerely)望んでいるかどうかである。本質条件とは、当該の発語内行為の本質がもたらす制約のことであり、“依頼”の場合で言えば、その発話が聞き手にp をさせようとする試みとみなされることである。

 さて、Searleはこれらの条件について綿密な考察を加えるなかで、誠実性条件との絡みでいわゆるMooreの逆説にふれている。それは例えば、

(1) 今、雨が降っている。でも、私はそのことを信じない。

などのように、「p という命題と『私はp を信じない』という命題が不整合でないにもかかわらず、私は、p を主張しながらかつp を信じないということができない」(ibid.:128)という逆説のことであり、Searleによればこの逆説が出来するのは「誠実性条件において特定される心理状態が存在するときにはつねに、その行為の遂行がその心理状態の表現と見なされる」(ibid.:116)からだという。つまり、「今、雨が降っている」と“主張”する発語内行為の誠実性条件において特定される心理状態(話し手はp を信じている)と、それに続く信念文「私はそのことを信じない」が矛盾するためである、と*9

 これに対し、橋元[1995:109]は、「表面上(1)と同型でありながら、明瞭に逆説性を構成しているとはいいがたい」例として次の(2)(3)のような事例をあげる。

(2) 地球は丸い。でも、私はそのことを信じない。
(3) 麻原彰晃が地下鉄サリン事件を指示した。でも、私はそのことを信じない。

(2)は「科学的真理」に関する発話、(3)は「報道的真実」に関する発話である。このような発話は、(1)とは誠実性条件を異にする別タイプの“陳述”なのだろうか。

 橋元はむしろ(2)(3)のような言語行為が、(1)とは「基底の構造を異にする」可能性を追究する。

構造としてあらゆる言語行為にF(p) の基本形を置き、効力部 F の行為主体として話し手 I 、行為対象として聞き手 you を措定することは…言語行為論の前提として維持されている。たとえば、(2)の場合をとっても、その基底には、I TELL you that p …という構造を考えるのである。しかし、単純にそう考えた場合、(1)のような例との差異が表現できない…。こうしたことを説明するためには、言語行為主体の二重性という事態を考えなければならない。 (橋元[1995:111])

橋元は、(1)(2)(3)の第一文をとりだして、改めて観察を加える(ibid.:111f)。

(1') 今、雨が降っている。
(2') 地球は丸い。
(3') 麻原彰晃が地下鉄サリン事件を指示した。

(1')の場合、話し手の体験した外的世界を言語化している。……一方、(2')は話し手の体験した外的世界や心的世界の記述ではない。話し手が言語化しているのは、話し手には体験し得ない世界であり、既に存在している他の言説的世界を再言語化したに過ぎない。このことは、報道的言説を再言語化した(3')も同様である。……これらのことから言えるのは、(1')の場合においては、言語行為の基底構造を I TELL you that p と考えてよいが、(2')(3')の場合、発話主体として、もう一つ別の一般人称X、つまり既に流布している言説の発話主体を挿入しなければならないということであろう。つまり、(2')(3')のような発話は、I TELL you X TELL that p という構造をもつ(斜体のTELL は限りなく「言及」的使用に近い陳述を示す)。このような構造をとる発話をここでは「汎人称発話」と呼ぶことにしよう。〔※一部修正を加えた〕

このような汎人称発話構造は、何も“陳述”に限って観察されるものではない。例えば、次のような“命令”(あるいは“禁止”)をみてみよう。

(4) 芝生に入らないで下さい。ほんとは禁止したくないんですが。

この場合、その「実態は、I TELL you X ORDER you to keep off the grass と考えられる」(ibid.:114)。こうした一般的規範を述べたものとみなしうる発話を橋元は「公的規範発話」と呼び、結論として次のように締めくくっている(ibid.:116)。

既に存在している他の言説世界を再言語化する叙実的発話の場合は I TELL you X TELL that p 、また遂行的な公的規範発話の場合は I TELL you X PERFORM that p (PERFORMは遂行的発話の抽象動詞を示す)という汎人称構造をとると考えられる。演劇やドラマのせりふの場合、その性質上、すべての発話は I TELL you X TELL (or PERFORM) that p (当然、せりふによっては、I TELL you I TELL you X TELL (PERFORM)......というようにさらに審級性が高次になる)という構造をとり、構造的には同型である。このように考えれば、われわれの多くの日常会話は「せりふ」なのであり、汎人称発話構造をとらない一部の発話の方こそ、むしろ特殊例とみなされるべきなのである。

 本稿は、こうした橋元の汎人称発話論の基本的見解を妥当なものとして継ぎつつ、次節においてアイロニーの《本質》を解明するための補助線となる論点を二つばかり追加しておくことにしたい。なお、橋元はアイロニーを汎人称発話の一特種(仮人称発話)とみなしている(ibid.:112)が、本稿がその点に関する見解を継がないことは言うまでもない。それは、アイロニーを汎人称発話の一特種とみなすことが誤りであるためではなく、むしろその特種性の内実の把握に、前節で述べたような難があるためである。

 補助線となる論点の第一は、橋元が上に述べるように「汎人称発話構造をとらない一部の発話こそ、むしろ特殊例とみなされるべき」かどうかということである。そうした事例の方がやはり一般例とみなされるべきだというのではない。そうした事例にも汎人称発話構造を認めうるのではないかということである。例えば(1)に、

I TELL you that X TELL that it is raining now

という汎人称発話構造をあてはめたとしても、(1)と(2)(3)の違いを、発話の際にI=Xが前提されているか/I≠Xが前提されているかの違いと考えるならば、特に無理は生じまい。本稿ではこのように、汎人称発話構造を言語行為の一般的な構造とみなすことにしたい。

 また、ここから示唆されるように、事前条件の一部と誠実性条件は、この発話主体Iと発話人称Xの結びつきに関する制約とみなしうる。これが第二の補助線となる論点である。例えば、役者が劇中で「今、雨が降っている」と述べたとしても、その役者は“今、雨が降っている”と信じているわけではない──誠実性条件が満たされていない──がゆえに、それは『不適切』な言語行為(Austin[1962=1978:28]のいう『濫用(abuse)』)となるわけだが、このことは見方をかえれば“誠実性条件において特定される心理状態が発話人称X(役者の演じる劇中人物)に帰せられるばかりで発話主体Iには帰せられない”という発話人称Xと発話主体Iの不一致・乖離を示している。したがって、誠実性条件とは(それにおいて特定される心理状態の帰せられる)発話人称Xと発話主体Iが一致しているかどうか<whether X is I or not>を質す条件であるとみなしうるだろう*10。また例えば、裁判の傍聴者が「被告に死刑を宣告します」と述べるような場合に、それが『不適切』な言語行為となるのは、傍聴者には死刑を“宣告”する資格がない──事前条件(の一部)が満たされていない──ため、言い換えるなら、発話主体Iが死刑の“宣告”を遂行する資格を備えた発話人称Xではないためである。したがって、事前条件には、(当の発語内行為を遂行する資格を備えた)発話人称Xが発話主体Iに一致しているかどうか<whether I am X or not>を質す条件が含まれているとみなしうるだろう。

 このように視座をとりなおすと、(『適切』な言語行為の)汎人称発話構造は潜在的に次のような構造をとるものとして再定式化することができる。

I SHOW you that  {<X is I> & <I am X> & ...... & }  X PERFORM that p
適切性(条件)

ここで、SHOWは積極的に言語化される──「語られる(TELL)」──のではなく、いわば単に「示される」のみであることを表している*11。{ }内に「示される」のは、当該の言語行為を『適切』なものとする一連の条件であり、ここには誠実性条件にあたる<X is I>・事前条件の一部にあたる<I am X>など(の発話人称の設定)が含まれる。これらの人称設定に基づいて、通常XにはIが代入されることになる。また、PERFORM は TELL を含む(TELL or PERFORM を略記した)ものとし、以下ではPERFORM をこの意味で用いる。

 以上のような二つの補助線を引き終わったところで、次節では、いよいよアイロニーという言語行為に関する本稿の結論を提示することにしたい。

§6.意図された不適切言語行為としてのアイロニー

 アイロニーの《本質》は“意図された不適切言語行為(intended infelicitous speech act)”という点にある。これが本稿の結論である。

 より精確に言えば、アイロニーとは、意図的にその不適切性が示され、最終的に発話人称Xが発話主体Iと一致していないこと<I am not X>が示されるような言語行為である。その汎人称発話構造は、以下のように表すことができる。

I SHOW you that it is infelicitous that X PERFORM that p
〔it entails that X is not I as a corollary〕

ここで、斜体のinfelicitous(不適切性)には、とりあえず、<X is not I>──Searleの誠実性条件にあたるもの──は含まれないものとする(以下で「不適切(性)」あるいは「適切(性)」と述べる場合も同様)*12

 ある発話がこのような構造をもつ言語行為=アイロニーとして成立・発効する具体的な機制は、次のようなものである。

 発話者は、発話に言語付随的な反語信号を伴わせることによって、あるいは言語外的なコンテクスト・状況との不協和を生じさせることによって、その発話(言語行為)が通常どおりに円滑な形でなされたものではないことを、まず示す。例えば、私たちは通常「彼こそ超一流の作家でしょう!」と褒め讃えるようなときに「(爆笑)」したりはしない。この点でその発話は円滑を欠く。そして、土屋[1983:131]のいうように「言語が使用されたなんらかの状況において、なんらかの観点から円滑を欠くと考えられたときこれらの条件〔=適切性条件〕が顕在化され不適切性の判定が行われることになる」*13。アイロニーの《(認知的)効果》とは、こうした通常は潜在的・背景的な適切性(の条件)が、不適切性として顕在化するという、いわば『図-地(figure-ground)』の反転(図5において笑い合う顔の対面と見えていたものが杯と見えるようになるといった見えの転換にも似た)に由来するものである。直截的な表現は、こうした図-地の認知的反転を伴うものではない。アイロニーと直截的表現を認知的効果の面において隔てるのはこの点である。

図5

図5 図-地の反転

 こうして顕在化された不適切性に、発話者の関与(意図)が感じられるときに、その言語行為はアイロニーとなる(感じられないならばそれは単なる不適切な言語行為である)。ただここで注記しておきたいのは、発話者(発話主体I)にそうした意図を明確に認めうる場合だけでなく、発話者は本来そうした意図をもたないにも関わらず、聞き手には発話者がそうした意図をもつものであるかのようにみなしえてしまうような場合も、その言語行為はアイロニーとなるということだ。それは、佐藤[1992:252f]がアイロニーの事例としてあげている次のような場合である。

<8>
事務員たちはチラとアイに視線を向け、受話器を置いた係員は、ニコニコ笑いながら、ホテルまでの道をアイに教えた。
──この道を右へ、駅と反対に向かって真っすぐ行くとつき当たりの三叉路がありますから、それを左へ曲がるんです。それから、アーケードのある通りに出たら、二つ目の四つ角を左に曲がって、少し歩くと鏡城跡の堀端へ出ます。堀端を出たところで堀にそって左の方へ曲がって少し歩くと橋がありますから、それを渡って、左に折れ最初の角(工事中の建物があるから、すぐにわかりますよ)を右に曲がって真っすぐ行くと、役所の隣に大きな建物がありますから、すぐわかりますよ。 (金井美恵子『夢の時間』)

この係員のくだくだしい説明は、悪意から発せられたものではない。しかし、そのくだくださからして、そのホテルまでの道筋は到底「すぐにわかる」ようなものではなかった。つまり、意図せずしてその“説明”は不適切だったである。また、その不適切性は係員の本意とするところではなかったにせよ、彼のなした説明のしかたに起因するものであり、言い換えるなら、発話主体Iの関与する要因によって引き起こされたものである。ここにおいて、聞き手はその不適切性を発話者によって意図されたものとして構成せざるをえなくなる(その発話者は、本来の発話主体Iとはズレのある発話主体I'となるだろうが*14)。このようにして、係員の“説明”は意図せずしてアイロニーとなってしまうのである。

 さて、発話主体I(あるいは上の例のようなズレのある発話主体I')が、こうした不適切性を意図的に『示す』・顕在化させる者であるとすれば、そこには発話人称Xとの乖離<X is not I>が帰結することになる*15。繰り返しになるが、橋元[1989]の提唱した仮人称発話説は、アイロニーにおけるこうした発話主体Iと発話人称Xの乖離を正しくとらえていた。ただ、その乖離を、評価軸に沿った下方への発話視点の移動とみなしたという点において誤っていたのである。

 最後に、残り二つの問題──アイロニーの《非対称性》と《明言による失効》──について解答を与えておこう。

 アイロニーが不適切性を示す言語行為であるならば、そこから直ちに窺い知れるように、それは、通常の「適切」な言語行為とは異なったネガティブさ(適切さ)を本来的に伴う性格のものである。アイロニーの《非対称性》はこの性格に由来している。

 反証型アイロニーの場合には、先行発話者Uが発話人称Xに比定されることにより、間接的に先行発話者の言語行為が不適切なものとして示されることになる。つまり、先の定式化にしたがって記せば、次のような構造をとることになる。

I SHOW you that it is infelicitous that X ∽ U PERFORM that p

 自生型アイロニーの場合に《非対称性》が生じるのは、不適切性を示すというネガティブな方法をとることが、一般的に、ものごとを賞賛するなどといったポジティブな目的にそぐわないからである。さわやかな快晴を讃える意図をもつ者が、「気持ちが滅入るような天気だね」と述べる発話人称Xを貶めるような方法を敢えて選択するのは、つまり、意図(目的)とは逆の方向性をもつ方法を敢えて選択するのは不自然だろう。

 アイロニーに《明言による失効》という性格があるのは、それが当該の発話(言語行為)の不適切性を『語る(TELL)』ことになってしまう──不適切性を予め『図』に繰り込んでしまう──ため、図-地の反転が生じなくなるからである。試しに、アイロニーであることが明言された(語られた)場合の、その言語行為構造を定式化してみよう。

I TELL you that it is infelicitous that X PERFORM that p
I SHOW you that it is felicitous that X1 TELL that it is infelicitous that X2 PERFORM that p

ここで『示される(SHOW)』のは、あくまで“X1 TELL that...”が適切(felicitous)であることであり、したがってSHOWのレベルにおける図-地の反転を、ひいては<X1 is not I>を結果するものではない。それゆえ、こうした言語行為はアイロニーらしい効果を生じえないのである。

 なぜアイロニーは、ときに「政治学(Politics)」──最も広義のそれ──の研究対象とされるのか*16。それは、単にアイロニーが政治的言説によく姿を現すからではない。上にみてきたように、アイロニーがある言説の発効する「政治学」的背景・『地』を(バック-グラウンド)不適切性という形で逆照射する性格の言語行為だからである。

 また、このようにとらえなおしたとき、アイロニー研究は改めて「政治学」的な拡がりをもつことになるだろう。その一つの試みとして、(ここで十分に論じるだけの余裕はないが)現代美術の祖と目されるダダイスト Marcel Duchamp の『泉』という作品をとりあげてみよう。それは既製品の便器に署名しただけの作品であったため、当時の美術界に大きな物議を醸した。この便器を美術作品として“表現”するという行為は、ひとまず次のように定式化しうる。

I SHOW you that it is felicitous that X EXPRESS that this ready-made toilet is an art work

この“表現”行為がfelicitous(適切)であるのは、DuChamp(=I)が、あるものを芸術作品として表現する資格を備えたX──すなわち芸術家──として既に社会的身分を確立していたからであり、芸術表現行為をなしうる事前条件<I am X>を満たしていたからである(加えて言えば、芸術作品が置かれるにふさわしい状況=美術館にその便器が置かれるという点でも『適切』な行為であった)。しかるに、この作品が物議を醸したのは、言うまでもなく、既製品の便器が芸術作品たりうるのかという点である。だが、何が芸術作品たりえて何がたりえないかという基準は極めて曖昧で多分に恣意的なものでしかない。既に権威を確立した芸術家が作品を自らの意図の表現(representation)として提出するなら、その基準は容易に変更されうる。19世紀後半に Monet が(印象派)、20世紀前半に Picasso が(キュビズム)、やはり大きな物議を醸しつつ、その基準を塗りかえてきたように。逆に言えば、Duchamp の当時には、“権威ある芸術家が自らの意図の表現として然るべき場所(美術館・展覧会など)に提出すること”が芸術作品を芸術作品たらしめる要件(適切性)と化していたのである。芸術家の意図の表現であることを保証する手続き。それが作品への署名(signature)であり(Derrida[1972=1988])、便器への署名はその手続きの執行にほかならなかった。ここにおいて、既製品の便器は芸術作品として──芸術家の意図の“表現”として──適切にならざるをえない事態に追い込まれる。しかし、その便器が既製品であるということは、その作者が作品の提出者=芸術家ではないことを、そこに芸術家の意図を込めようもない──反映(リプリゼント)させようもない──ことを、如実に示すものであった。Duchamp の“表現”は、いわば次のような「括弧入れ」されたI=芸術家としての人称X1の行為と、それを適切ならしめる近代芸術制度(『地』=バック-グラウンド)の不適切性を示すアイロニカルな行為だったのではないだろうか。

I SHOW you that it is infelicitous that X1="I" EXPRESS that it is felicitous that X2=X1 EXPRESS that p

このアイロニーはあまりに複雑だったためか、およそ世間の理解を集めず、また美術産業界は半ば暗黙の内にinfelicitousfelicitousに置き換えることによって近代美術制度の命脈を保った。そのため、さらに高階で不適切性を示そうとする運動、Elaine Sturtevant やMike Bidlo に代表されるようなネオダダ(シミュレーショニズム)が起き、現代美術を無用に難解なものとしていった。例えば Sturtevant の作品には、Duchamp の『泉』を完全に複製し、単に「デュシャンの泉」とタイトルをつけたものがあるが、これは Duchamp の“表現”を次のように高階化しただけのものにすぎない。

I SHOW you that it is infelicitous that X1="I" EXPRESS that it is felicitous that X2=X1 EXPRESS that it is felicitous that X3=X2 EXPRESS that p

アイロニーを文字通りの意味に受け違えつつ、それを入れ子型に自らに組み込んでいく運動。それが Duchamp を経由した近代美術の姿なのではないだろうか。

 アイロニーは単に修辞学の研究対象であるばかりではない。その「政治学」的研究の展開を今後に期しつつ、ひとまず本稿を閉じることにしたい。

文献
Abstract

The traditional view on irony defines it as a "figure of speech", which means merely the opposite of the literal meaning. For example,

irony  
the expression of one's meaning by using words of the opposite meaning in order to make one's remark forceful, e.g. that will please him (used of something that will not please him at all).   [ The Oxford Paperback Dictionary, 3rd ed. ]

From this viewpoint there is no way to answer the following questions.

First, consider that the ironical utterance (ex. How clever you are) has a deeper impression on the hearer than the literal expression (ex. How stupid you are). This raise the question; what makes irony more than the literal equivalent?

Second, irony is always used to create an unpleasant impression. Think also of the fact that there is no irony such as How stupid you are to admire the hearer's intelligence. This raise the question as to why irony has such an asymmetry in its use.

Finally, as Grice(1967) pointed out, there is something strange about saying, Speaking ironically, you are so clever. The effect of irony is spoiled by adding such an explicit marker. In case of a metaphor, one can add without any inappropriateness such a prefix as speaking metaphorically. In other words, irony must remain implicit to be ironical, while metaphor does not require implicitness to be metaphorical. What creates this difference between irony and metaphor?

In recent years, several theories of irony have been proposed, including so-called Mention Theory by Sperber and Wilson(1981), Pretense Theory by Clark and Gerring(1984), Mimetic Utterance Theory by Hashimoto(1989), and so on. They succeed in answering the above question partly but fails as a whole. In this paper, I make a critical assessment of their theories, and give my own account of irony as such a kind of speech act as with an intention to show its infelicities. From the viewpoint of Generalized Utterance-Agent Theory which is proposed by Hashimoto(1995), I formulate the speech act of irony as follows.

I SHOW you that it is infelicitous that X PERFORMS that p
  [it entails that X is not I as a collorary]

Daisuke TSUJI, 1997
The Pragmatics of Verbal Irony
The Bulletin of the Institute of Socio-Information and Communication Studies, the University of Tokyo, No.55, pp.91-127

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