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意味することにおける意図と規約

―― コミュニケーションに関する理論社会学的関心からの一考察
辻 大介, 2003 『社会言語科学』6巻1号, pp.29-39

0.はじめに
1.グライスの非自然的意味の理論
2.意図の無限背進のパラドクス
3.言語規約と意図
4.自己参照的意図の規範性
5.結びに代えて
  / 文献 / Abstract

私たちのおこなうコミュニケーションを,物理的・機械的な情報伝達とは十分に区別されるように記述できるかどうかが,理論社会学にとってはひとつの試金石となる.本稿ではその可能性をH.P.グライスの非自然的意味の理論に求める.それは,発話者が何ごとかを意味する(コミュニケートする)ということを,発話者のもつ自己参照的意図から分析するものである.それに対しては,コミュニケーションにおける言語規約的要素を重んじる立場と,自己参照的意図の無限背進を懸念する立場から,批判が提出されてきた.これらの批判は個別の論点をもつため,これまでは分け離して扱われることが多かったが,本稿ではそれらをあわせて考察することをとおして,最終的に,コミュニケーションにおける自己参照的意図と言語の規範性が根源的な関係をもつものであることを示し,グライス流の意図によるコミュニケーションの記述に,社会(学)的記述と呼ぶにふさわしい資格を与える.

0.はじめに ――問題の所在

 何のコミュニケーションもおこなわれない人間集団を想像してみよう.それは,ヒトのよせあつめ=「集合」ではあっても,「社会」とは呼べまい.その意味で,私たちの社会を社会たらしめているのはコミュニケーションであると言えるだろう.

 一方,ヒト以外の動物や機械にも「情報伝達」をおこなうものがある.その情報伝達と人間のコミュニケーションには,何か本質的な違いがあるだろうか.この問いは,社会学にとって,きわめて重要な問いである.そこに本質的な違いがなければ,社会学は最終的には自然科学(情報科学)に含みこまれるべき学ということになるからだ.

 それに対して本稿は,少なくとも次の2点において,人間のコミュニケーションと物理的な情報伝達は本質的な違いをもつと考える.

 (1) 人間のコミュニケーションの場合には,同じことばが同じ状況で発せられたとしても,受け手が相手の意図をどうとらえるかによって,ことばの意味や受け手に生じる反応が変わることがある.たとえば「きみは親切だね」と言われたとしても,相手の意図が賞賛にあるのか/(アイロニカルな)非難にあるのかのとらえかたしだいで,受け手の反応は大きく異なるだろう.それに対して,物理的な情報伝達の場合,たとえばミツバチが仲間の8の字ダンスをみて,その意図を忖度し,異なる反応をおこすようなことはおよそありえない.

 (2) 人間のコミュニケーション(において用いられることば)は規範性をともなう.先の「きみは親切だね」の例でいえば,それを賞賛ととるべきか/非難ととるべきかを私たちは問いうる.また,そのことばが適切に解釈されなかった場合には,誤解の責任がことばの発し手/受け手のどちらにあるのかが問われるだろう.それに対して,ミツバチの8の字ダンスをどうとるべきかという規範的な問いは生じえないし,仮にあるミツバチのダンスが仲間に適切な反応をおこせなかった(えさのありかに誘導できなかった)としても,ダンス信号の発し手あるいは受け手にその責任が問われることもありえない.

 人間のコミュニケーションと物理的な情報伝達の違いは,他にいくつも挙げられるだろうが,少なくともこの2点――(1)意図の関与,(2)規範性の随伴――を射程におさめていなければ,社会学は,コミュニケーションを単なる情報伝達として,社会を情報システムの一種として,記述・説明せざるをえなくなるだろう.しかし実際には,コミュニケーションと情報伝達に本質的な区別を認めずに,社会学を情報科学の下位部門に位置づける社会学者も多く(たとえば吉田 1990),これまでのところ社会学は上記2点を十分に考慮した理論の彫琢を怠ってきたように思える.

 むしろこれらの点に関しては,分析哲学が,H.P.グライス(H. Paul Grice)1)の「非自然的意味(non-natural meaning)」の理論を中心にして,緻密な議論・考察を展開してきた.そこで本稿では,まずグライスの所論を概観し(1節),それに対する主だった2つの批判を整理しつつ,さらに独自の批判的検討をくわえ(2~3節),それをもとに,コミュニケーションにおける意図の認識と言語規約のもつ規範性の理解が,別個のものではなく,根源的な関係をもつものであることを示す(4節).

 なお,以下ではグライスの文献については本稿末尾に示す略号を用いる.ページの参照指示は邦訳のあるものに関してはそれに基づくが,訳文は適宜訳しなおしている.

1.グライスの非自然的意味の理論

 グライスが彼独自の意味理論,いわゆる意味の「コミュニケーション‐意図理論」を打ちだしたのは1957年に公刊された論文においてであり,そこではまず自然的意味と非自然的意味の区別が立てられている(MG:p.223-6).

 彼は,自然的意味の用例として(a)「あの発疹はハシカを意味している」などをあげ,非自然的意味の用例として(b)「あの三度のベルはバスが満員であることを意味する」などをあげて,両者を区別する基準をいくつか示した.その一つは意味されたことを取り消す状況がありうるかどうかである.たとえば,(b)の場合は「だが実際には満員ではなかった,車掌がまちがえたのだ」とつづけることができるが,(a)の場合は「だが実際にはハシカではなかった」とつづけられる状況はおよそ考えられない.それは,自然的意味については「その発疹によって誰某はこれこれのことを意味していた」などと言いえない,したがって誰某がまちがうこともありえないからである.

 この「誰某が…意味する」という言いかたがありうることからもうかがえるように,非自然的意味はコミュニケーションに強く関係する.それに対して,自然的意味はより一般的な認知にかかわる.ある程度の学習能力をそなえた動物であれば,黒雲が現れると雨が降るという経験をくり返すことで──ある種の条件づけの過程を経ることで──黒雲を見ると雨を予期するような傾向性をもつようになるだろう.その傾向性こそが“黒雲は雨を意味する”という自然的意味の内実にあたる.では,非自然的意味もこのような条件づけによって習得された傾向性として説明しうるだろうか.

 グライスはこの見かたをただちに退ける.なぜなら,その見かたは「特定の話し手なり書き手が特定の場面で記号によって意味すること(それはその記号の標準的な意味からずれることもある)について言いうることをあつかう用意がない」(MG:p.229)からであり,たとえば,特定の場面において標準的な意味からずれて用いられるメタファやアイロニーの意味について何の説明もできないからだ.私たちは初めて聞く言いまわしのメタファであってもその意味を理解しうる.このことを説明するのに,あらかじめ習得された傾向性をもちだすわけにはいくまい.

 それに代えてグライスは,特定の発話者が特定の場面で何ごとかを意味するという場合を非自然的意味の基本事例とし,それを次のように定式化する.(引用はUM:p.139より.なお,以下での「発話」は言語的なものだけでなく,身ぶりなど非言語的なものも含む.)

「Uがxを発話することによって何ごとかを意味した」が真であるのは,ある聞き手Aに対して,Uが次のことを意図してxを発話した場合であり,その場合のみである.
(1)
Aが特定の反応rをおこすこと
(2)
AがUは(1)を意図していると思う(認識する)こと
(3)
Aが(2)の成就に〔少なくとも部分的には〕もとづいて(1)を成就すること

 これら3層の意図が必要とされるわけを説明しよう.

 たとえば,犯人は花子だと刑事に思わせるために,私が花子のハンカチを犯行現場にわざと落としておいたとする.このとき,私は(1)刑事が反応rをおこす(花子が犯人だと思う)ことを意図している.しかし,「私はそのハンカチを落とすことによって花子が犯人であることを意味した」とは言えまい.刑事はそう思うように私がしむけたことすら知らないからだ.それゆえ,Uが何ごとかを意味したと言いうるには,意図(1)を聞き手にわからせる意図(2)がなくてはならない.

 しかし,これでも十分ではない.そのことを示すため,グライスは,ヘロデが聖ヨハネの首を皿にのせてサロメにさしだす,という例をあげている.このときヘロデは,(1)サロメにヨハネの死を信じさせようと意図しており,(2)その意図を認識させようとも意図している.だが仮に,ヘロデがヨハネの首をはねてそのまま立ち去り,その後サロメが偶然その首が床に転がっているのを見かけたとしても,彼女はヘロデの死を信じることになろう.つまり,サロメには(1)の意図を認識すること(=(2)の意図の成就)とは無関係に反応r(ヘロデの死を信じること)が生じている.これは「誰かがそれと知るようにわざとあからさまにしむけること」の例ではあっても,「告げること(telling)」の例,非自然的意味の例とは言えない,とグライスは判定する(MG:p.231).それゆえ,発話者の意図の忖度が反応rの生起に欠かせない条件となるよう,(3)の意図が要求されるのである.

 この箇所はひとつのポイントであるにもかかわらず,非自然的意味の例にあたらないと判定する根拠についてグライスは多くを説明していない.「それと知るようにわざとあからさまにしむけること」と「告げること」の区別にしても決してわかりやすいとは思えないので,本稿なりに補足しておきたい.

 上の例の場合,サロメの信念(反応r)の生起については自然的意味の枠内で説明が事足りてしまう.そこにヘロデの意図を重ね描くことはできるが,それはいわゆるオッカムの剃刀によってそぎ落とせるものにすぎない.その点でこれは自然的意味と非自然的意味の境界事例ともいえるが,次のような自然的意味の枠内では説明のつかないケースがあるがゆえに,おそらくグライスはヘロデ‐サロメの例を(純然たる)非自然的意味とはみなさないのである.

太郎は妻とある講演会に出席したが,その講演はあまりにつまらなかった.そのことをそれとなく妻に知らせるため,彼女に見えるようにあくびしてみせることにした.しかし,太郎は昨夜あまり眠っておらず,そのことを妻も知っているため,単に睡眠不足から生じたあくびと思われるおそれがある.そこで,そうではないことがわかるように(目配せや不自然な口の開けかたなどでもって)表情をくふうして,言い換えるなら,あくびのふりであることがわかるようにして,あくびする.

 このとき,太郎は,(1)妻が「講演はつまらないと太郎は思っている」と思うこと(=特定の反応raをおこすこと)を意図している.また,あくびのしかたを調整することで,単に睡眠不足で眠いのではなく,(2)何ごとかをわからせようとしている(=何かしらの反応rxを生じさせようと意図している)ことを妻が認識するように意図している.そして,(3)“単に眠いのでないとすれば”という想定(=意図(2)の認識)にもとづいて“「講演はつまらないと太郎は思っている」と思わせたいのだろう”と妻が思い至るように意図している.ここで仮に妻が(1)の意図を認識しなかった(=(2)の意図が成就しなかった)とすれば,彼女は当然そのあくびを自然的意味においてとらえ,単に眠いだけだとみなすだろう.それゆえ,“(2)の意図の成就”という制限をくわえる(3)の意図が,あくびの意味を(非自然的意味に)変えるものとして,ここでは有効にはたらいているのである.

2.意図の無限背進のパラドクス

 このグライスの意味理論に対しては,すでにさまざまな批判が投げかけられている.なかでも本稿の問題関心にとって重要なのは,コミュニケーションにおける言語規約(慣習convention)の役割を重視する立場からの批判と,コミュニケーションにおける意図の無限背進を懸念する立場からの批判である.本節ではまず後者の批判からとりあげよう.

 意図の無限背進の問題とは,グライスの考えかたを徹底するならば,意図(1)(2)(3)にとどまらず,さらに意図(4)(5)…が必要となることを指す.この問題はP.F.ストローソン(Strawson 1964)によって示唆され,S.R.シファー(Schiffer 1972:p.17-26)によって明確化された.シファーはまず次のような例をとりあげる.

 次郎は健一を部屋から追い払おうして,ひどく調子外れに歌をうたい,ときおり鬱陶しそうに健一をみる.ここで次郎は次のように考えている.「健一がその鬱陶しそうな表情に気づけば,私がわざと調子外れにうたっていることを察し,彼は“音痴な歌に耐えかねて自分が部屋から出ていくことを次郎は意図しているのだ”と考えるだろう.彼はプライドが高いから,自分を部屋から追い払おうとするような相手といっしょにいることに我慢ならず,部屋から出ていくだろう」,と.

 このとき次郎は,(1)健一が退室することを意図し,(2)鬱陶しそうな表情を手がかりにして彼が(1)の意図を認識することを意図し,(3)その認識にもとづいてプライドの高い彼が退室することを意図している.しかし,これを指して「次郎は歌をうたうことによって"部屋から出ていけ"ということを意味した」とは言えまい.むしろ,ある行動(反応r)をおこすようにしむけたとかしくんだとか言った方がいいだろう.なぜなら,次郎は意図(1)に気づかせようと意図(2)してはいるが,その意図(2)の内実は,健一に“次郎がつい顔にだしてしまった表情を見てたまたま気づいた”と思わせるようにしくむものだから──意図(2)自体は健一に気づかれないよう隠しているから──だ.したがって,グライスの定式には,(4)“AがUは(2)を意図していると認識すること”を意図する,という条項を加えねばなるまい.

 しかし,それでも十分ではないことをシファーは例証する.今度の例でも,次郎は健二を追い払おうとして,調子外れの歌をうたい,ときおり鬱陶しそうに健二を見る.ただ,健二は健一と違って勘が鋭いから,鬱陶しそうな表情がたまたま顔にでたのでなく,作為的であることがばれるだろうと次郎は思っている.このときの次郎の意図は次のようなものだ.「健二が鬱陶しそうな表情に気づけば,私がわざと調子外れな歌をうたっていることを察するだろう.しかし,彼は鬱陶しそうな表情のわざとらしさにも気づくから,“次郎は音痴な歌に耐えかねて自分が出ていくことを意図しているように建前上はみせかけて,その実は鬱陶しそうな表情からその意図を察して出ていくようにしくんでいるのだ”と考えるだろう.健二もプライドが高いから,そこまで策を弄して自分を追い払おうとする相手といっしょにいることに我慢ならず,部屋から出ていくだろう.」

 さて今度の次郎は,先の例と同じく(1)~(3)の意図をもち,それに加えて,健二が“その実は鬱陶しそうな表情から意図(2)を察して出ていくようにしくんでいる”と思うことも意図(4)している.だが,その意図(4)自体──“意図(2)を察して出ていくようにしくんでいる”と思うようにしくんでいること──は健二に気づかれないよう隠しているため,これまた,次郎が何ごとかを「意味した」と言うわけにはいくまい.それゆえ,(5)“AがUは(4)を意図していると認識すること”を意図する,という条項の追加が必要になる.

 以下同様に,意図(5)を認識させる意図(6),それを認識させる意図(7),……と無限の意図が必要になるというわけだ.このような無限の意図をともなわなければ,何ごとかを意味する(コミュニケートする)ことができないのなら,限られた時間と能力しかない私たちにそれをなしうる見込みはない2).しかるに,たいていの場合,私たちは苦もなく相手に何ごとかを意味し,相手もまたその意味をただちに理解する.これは一つのパラドクスと言えよう.

 このパラドクスを解消するために,シファーは「相互知識(mutual knowledge)」という概念装置をもちだす(p.30-42).ある者SとAがある事柄pについて相互知識をもっているとは,[s1]Sはpを知っている,[a1]Aはpを知っている,[s2]Sはa1を知っている,[a2]Aはs1を知っている,[s3]Sはa2を知っている,[a3]Aはs2を知っている,……というぐあいに,[s1][a1]に加えて“Sがanを知っている”“Aがsnを知っている”がn=2から∞まで成り立つことを指す.たとえば,私とあなたがテーブルをはさんで向かいあい,二人のあいだにキャンドルが灯っていて,相手にそれが見えていることが互いに明らかな状況であれば,“キャンドルが灯っている”ことについて,相互知識が成り立っている(キャンドルが灯っていることを相手は知っており,そのことを自分が知っていることも相手は知っており,……)とみなすことに,さしたる問題はあるまい3)

 シファーは意図の無限背進をこの相互知識に置き換えることによって,グライスの定式をおおよそ次のように変更し(p.39),パラドクスの解消をはかるのである.

「Sがxを発話することによって何ごとかを意味した」とは,Sがxを発話したときに,それによってある事態Eを現実化することを意図していた場合であり,その事態E(の実現)とは,Sが(1)~(4)のことを意図してxを発話したことをAとのあいだで相互知識化する(ための決定的な証拠となる)ものでなくてはならない.
(1)
Aが特定の反応rをおこすこと
(2)
AがUは(1)を意図していることを認識すること
(3)
Aが(2)の成就にもとづいて(1)を成就すること
(4)
Eを現実化すること

 ある事態E(の実現)とは,当該状況下でxを発話することと読み替えてよい.1節であげた太郎の「あくび」の例でいえば,彼が何をしたかが妻に相互的に知られる状況で,わざとらしくあくびをすることが,事態Eにあたる.このとき,その事態そのものが太郎によって意図されたものであること(太郎が(4)を意図していること)もまた相互的に知られるだろうし,(1)~(3)の意図についても同様である.

 一方,先の次郎‐健一の例では,意図(2)が相互知識化しないように事態Eがしくまれており,次郎‐健二の例では,意図(2)を健二が知っていることを次郎が知っていることを健二に知られないように(すなわちこの場合も意図(2)が相互知識化しないように)事態Eがしくまれている.いずれの場合も「次郎が歌をうたうことによって何ごとかを意味した」と言いがたいのは,そのためである.

3.言語規約と意図

 このように,シファーの改訂案は,グライスの定式への反例をみごとに処理しうるように思える.しかし本稿としては,この改訂は未だ不徹底ではないか,それゆえに非自然的意味に関するある重要な問題が見過ごされているのではないか,という疑問を提出したい.

 シファーの提案の基本は,意図(4)(5)…を「(相互的に)知っている」という記述に置き換えることにある.これを徹底するなら,意図(2)および(3)もそれに置き換えるべきではないだろうか.つまり,次のようにさらに再定式化しうるのではないかということだ.

「Sがxを発話することによって何ごとかを意味した」とは,Sが次の条件を満たしつつxを発話した場合である.
(i)
Aが反応rをおこすことを意図し,
(ii)
意図(i)が相互的に知られる(発話状況である)ことを知っていた

 実際のところ,この再定式の方がグライスやシファーの定式よりも多くの事例をすっきり説明できるように思える.この点についてはグライスに対するもうひとつの批判――言語規約を重視する立場からの批判――がかかわってくるので,その要点を簡単に紹介しながら,議論を進めていくことにしよう.

 この立場から批判の口火を切ったのはJ.R.サール(Searle 1969:p.43-5)である.彼は次のような例をあげてグライスを批判する.第二次大戦中,あるアメリカ兵がイタリア軍に捕まる.彼は敵に自分はドイツ兵だと思わせて難を逃れたい.そこで唯一知っているドイツ語の文句「Kennst du das Land, wo die Zitronen blühen?」を口にする.このとき,彼はイタリア兵に一定の反応(彼がドイツ兵だという信念)を生じさせようとしており,かつ,その意図を認識させることによってその反応を生じさせようと意図している.よって彼はグライスのいう(1)~(3)の意図すべてをもっているわけだが,しかし,先の文句によって彼が意味したことが“私はドイツ兵だ”であるとは言えまい.問題の文句は言語規約上“君知るやレモンの花咲く地”という意味をもつからだ.それゆえグライスの定式には,(4)“発話された文が反応rを生じさせるために規約的に用いられる文であるという認識によってAが(1)を達成すること”を意図する,という条項を加えなければならない.

 このサールの加えた(4)の条項は,本節冒頭に示した再定式の条項(ii)に読み替えることができる((ii)に「言語規約からして(相互的に知られる)」という文言を補えばよい).あとは(2)と(3)の意図を除くことができれば,本稿の再定式と実質的に等しいものが得られるわけだが,サールを継いでさらに徹底した批判をおこなった土屋(1983)は,まさにそれらの意図が発話の意味を説明するのに不要であることを指摘している4)

 たとえば「外は雨だ」という発言は,通常,聞き手に“外は雨だ”という信念を生じさせるためになされる.そうした信念を生じさせるためではなくこの発言をなす状況を想像するのはきわめて難しく,「考えられたとしても,舞台の上での発言,皮肉,欺瞞など,本来的な言語の使用とは考えることができない,しかも,本来的でないことを独立に記述できる状況における発言に限定される」(p.135).よって,少なくとも「本来的」な状況であれば,「外は雨だ」という発言は言語規約によって“外は雨だ”という信念の生起と十分に結びつくはずであり,(2)や(3)のような自己参照的意図 (reflective intention) ── ある反応をおこさせようという意図を認識させることによってその反応をおこさせようとする意図 ── を説明に加えるのは余計なことでしかない.それはヘロデ‐サロメの例と同じく,オッカムの剃刀でそぎ落としうるものにすぎず,それゆえ土屋は「意図などという不要なものを導入してあえて混乱した説明を与えるべきではない」(p.137)と,グライス流の意味理論に破産宣告をくだすのである.

 この土屋の批判はきわめて妥当なものだろう.ただ,破産宣告をくだすのは性急すぎるのではないか.本稿はむしろ,本来求められるべきは,すべての事例を説明する唯一の定式ではなく,それぞれの事例を説明する複数の定式とその使い分けの基準ではないかと考える.その使い分けの基準を次に示したい.

 「外は雨だ」の例の場合,グライスのいう(2)や(3)の意図をあえて説明にもちこむ必要はない.だが一方,太郎の「あくび」のような例では,それによらずに説明を与えることはきわめて難しい.これらの事例の違いは,「Aに反応rを生じさせようという意図(1)を隠そうと意図(2*)しない」ことと,「意図(1)をわからせようと意図(2)する」ことの違いとして記述できる.これらが記述している内容はよく似ているが,その記述があてはめられる状況は明らかに異なる.

 人が誰かに何かしらのはたらきかけをおこなうときには,自然のなりゆきとして,はたらきかけようとしていること(意図(1)があること)が明白な場合が多いだろう.そのときに,意図(1)を何とかして隠そうと意図(2*)することはあっても,わざわざわからせようと意図(2)することはない(自然のなりゆきにまかせればいいのだから).逆に,なりゆきまかせでは意図(1)が相手にわかるかどうか不確実だったり誤解されたりするおそれがある状況では,わからせようと意図(2)するだろうし,それを「意図(1)を隠そうと意図(2*)しない」と記述するのは不適切である.

 このことからすれば,「外は雨だ」の例を記述するにふさわしいのは「隠そうと意図(2*)しない」であり(それゆえこの例では意図が積極的な役割をはたさず,説明は言語規約的要素がになうことになる),一方,「あくび」の例を記述するにふさわしいのは「わからせようと意図(2)する」である.なぜなら,そこでは単に眠いだけだと誤解されないように,つまり自然なあくびに見えないように,わざわざ行動が調整されているからだ.

 そして,「あくび」の例では,そのような意図(1)を知らしめるための行動の調整がなされるならば,話し手に意図(2)があることは相互的に知られるはずの状況であり,また,それを隠そうとするような行動の調整は何らなされていないのに対し,他方,次郎‐健一の例/次郎‐健二の例では,その意図(2)を隠そうと意図(3*)して,鬱陶しそうな表情をわざと見せる/わざとらしさも気づかれるようにする,といった行動の調整がおこなわれている.それゆえ,グライス自身も正しく示唆しているように,非自然的意味の正当な事例に求められるのは,話し手が無限の意図をもつことではなく,次郎のような「こそこそした(sneaky)意図」をもたないことなのである(UM:p.151,MR:p.290).

 ここまでの結論をまとめておこう.「Sがxを発話することによって何ごとかを意味した」とは,Sが次のⅠまたはⅡの条件を満たしつつ,xを発話した場合である.

Ⅰ.(i)Aが反応rをおこすことを意図していた
(ii)Aが意図(i)を認識しないように意図しておらず,意図(i)が相互的に知られる(発話状況である)ことを知っていた
(iii)
言語規約からしてxがAに反応rを生じさせる(発話状況である)ことを知っていた
Ⅱ.(1)Aが反応rをおこすことを意図していた
(2)Aが意図(1)を認識するように意図していた
(3)Aが(2)の成就にもとづいて(1)を成就するように意図していた
(4)Aが意図(2)を認識しないように意図しておらず,意図(2)が相互的に知られる(発話状況である)ことを知っていた
4.自己参照的意図の規範性

 しかし,「意味が規約と本質的な結びつきをもつとは思えない」(MR:p.284)と言い切るグライスにとって,Ⅰを定式に加えることは,やはり受け容れがたいものだろう.彼はあくまでⅡのあてはまるケースが非自然的意味の基本であり,言語の規約的意味はそこから派生するにすぎないと主張するからだ5).本稿はまた,このグライスの主張についても妥当性を認めるが(その理由はすぐ後で述べる),しかし,前節でみたとおり,少なくとも私たちが非自然的意味を理解する場面においては土屋の批判を容れざるをえない──ⅠがⅡより適切な記述・説明を与えるケースの方が一般的である──と考える.

 実は,グライスと土屋のあいだには,それと気づかれにくい議論のすれちがいがある.グライスが主張しているのは,言語の規約的意味の習得には,Ⅱのあてはまる場面が論理的に先行するということだ.習得後に,もっぱら言語規約に関する知識にうったえて意味を伝える・理解すること(=Ⅰの適用場面)が一般化するとしても,それは規約的意味の習得にⅡの適用場面が先行することを反駁するものではない.グライスの企図にとって致命的なのは,むしろ,言語の規約的意味の習得にあたって必ずしもⅡの適用場面を要さないことが論証されることなのである.

 しかし,Ⅱの適用場面を経験することなくして規約的意味を習得しうるとは,およそ考えにくい6).なぜなら,規約的意味のもつ規範性――「(本来)~を意味するべきである」と表される性質――を習得する契機が失われてしまうからだ.

 それが失われるわけを説明する前に,意味の規範性についてもう少しふれておこう.たとえば,「日本語において『サクラ』は“桜”を意味するべきである」と言うことはできるが,「この赤い発疹はハシカを意味するべきである」と言うのは不自然である.この違いは次の事情に由来する.前者の場合,外国人にむかって「彼はこれ(梅)を指して『サクラ』といったが,本来『サクラ』はあれ(桜)を意味すべきことばだ」と言うような状況がありうる.しかし,後者の場合,仮に赤い発疹がでたがハシカではない状況に出くわしたとしても(新種の病気ハシカモドキだったとしよう),「本来この発疹はハシカを意味すべき症状だ」と言うことは考えられない.むしろ,発疹のもつ意味を変更して「この発疹はハシカまたはハシカモドキを意味する」と考えなおすのが自然な対応だろう.つまり,それまで想定されていた意味への反例があらわれたとき,後者の場合は,その反例を包摂できるように意味を想定しなおさざるをえないわけだ.それに対して,前者の場合は,「本来~を意味するべきである」というかたちで,反例を却下し,それまでの意味の内容・基準を変えずに保存することができる.意味の規範性とは,このような意味の保存可能性=反例への耐性のことを指す7)

 さて,それでは,定式Ⅱの適用場面を経験することのない人物がいたとして,彼がこのように,想定していた意味への反例を却下し,想定を保存することはありうるだろうか.ここで,相手に意図(1)があることを認識する能力はあるが,意図(2)があることを認識する能力はない人物(つまりⅡの適用場面を経験しえない人物),三郎を考えて,簡単な思考実験をおこなってみよう.

 三郎は未だことばを知らない.そこで,彼の親は次のようにしてひとつのことばを教えようとする.ある種の動物(犬)が近くにいるときに限り,彼の前で「イヌ」という音声を発し,彼がそのつどの状況に応じて,ドッグフードを与えるなり散歩に連れだすなり,しかるべき行動(反応)をおこしたときにはアメを与え,おこさなかったときにはムチを加えるのである.行動主義心理学でいうこの条件づけの過程によって,彼は「イヌ」と聞いたときには,犬が近くにいると思うようになり,その音声を発した者はそう思わせようと意図(1)しているのだと理解するようになったとしよう.このとき,三郎は「イヌ」という音声に対し適切な反応をおこす傾向性を身につけており,「『イヌ』は“犬(が近くにいる)”を意味する」ことを習得したと言いうる状態にあるだろう.

 ここで注意すべきは,しかしながら,なぜ親がアメとムチを加えるのか,その理由は三郎にはわからないということだ.彼の親は,三郎にある反応(“犬が近くにいる”という信念)をおこそうと意図(1)し,その反応にいたるための手がかりとしてアメとムチを加えている.これは,太郎の「あくび」の例で,彼が妻に“講演は退屈だ”と思いいたらせるための手がかりとして,目配せしたりすることに等しい.すなわち,アメとムチという行為は意図(2)によるものであるわけだが,この思考実験の前提上,親のその意図(2)を三郎は認識できない.三郎がアメとムチによって適切な反応をおこすようになったとしても,それは,ネズミがある音を聞いてレバーを押すとなぜかしら餌がでてくるので,音を聞くとレバーを押すようになるのと,基本的に何ら変わらないのである.

 音を聞いたときにレバーを押しても餌がでてこなくなれば,ネズミはそれまでの想定を変更せざるをえまい.同様に,三郎もまた,たとえば親がうっかり猫を前にして「イヌ」と言ってしまった状況(反例)に出くわしたときには「『イヌ』は犬または(まれに)猫を意味する」と想定しなおさざるをえないだろう.仮に親が,うっかりまちがえただけであることをわからせようとして,何かしらの行為をおこなったとしても(たとえば自分にムチを加えて「ネコ」と言いなおすなどしたとしても),三郎がそれまでの想定を保存する結果にはいたりえない.なぜなら,まちがえたことをわからせようと意図してなされる行為とは,“犬が近くにいる”という信念をおこそうとする意図(1)がなかったことをわからせようと意図(2)してなされる行為にほかならず,三郎にはそのような意図(2)を認識する能力がない――すなわち,意味を変更するよりも保存することを選ぶ理由(=親が意図(2)したこと)が彼には何ら与えられていない――からだ.

 したがって,意図(2)(および(3)のような自己参照的意図)の組みこまれた定式Ⅱの適用場面を経験しえない人物は,言語規約(的意味)の規範性を習得しえない,と結論づけられるだろう8)

5.結びに代えて

 「規範」は社会学にとって最も重要な概念のひとつである.社会秩序が自然界の秩序と異なるのは,それが規範(規則rule)によって秩序だてられている点にある.しかし,これまでの社会学では,この規範という概念の分析が十分におこなわれてこなかった憾みがある.たとえば,橋爪(1985)の構想する「言語派社会学」は,従来の社会学理論の批判的検討にもとづいたうえで,社会を(ウィトゲンシュタインのいう)言語ゲームの総体としてとらえなおそうとする試みであり,現代社会学における優れた達成点のひとつともいえるが,そこでは,言語ゲームを成り立たせているルールはいわば分解(分析)不可能な原子のように扱われている.そのため,ルールの生成・変容の契機については多くを記述・説明できない弱みをもつ.それに対して,本稿の意義は,規範性をコミュニケーション(相互行為)における意図と関係づけて分析し,規範の生成・変容の契機を射程に収めうる理論的視座を提供したことにあると言えるだろう.

 むろん,本稿での分析は未だラフスケッチの段階にとどまるものであり,規範性理解の前提条件のひとつ(自己参照的意図の認識)を洗いだしたにすぎない.ひきつづきおこなわれるべき作業は主に2つある.1つはLewis(1969)をはじめとする規約研究の吟味であり,もう1つは発話の意図・意味の理解にかかわる合理性(たとえばDavidson 1984)9)の位置づけである.これらを今後の課題として,本稿を閉じることにしたい.

文献
Abstract

It is critically important for theoretical sociology to find an appropriate way of giving a description of communication, which is different enough from a mere physical description of information transmission. This paper seeks the way from H. Paul Grice's theory of non-natural meaning. According to it non-natural meaning can be explained by speaker's reflective intention(s). There are two kinds of criticisms of Grice's account of meaning, one to emphasize linguistic convention in communication, another to point out infinite regression of reflective intention. Although these criticisms have been discussed separately, by considering a connection between them I show that the reflective intention in communication has an intrinsic relation to the normativeness of language.

TSUJI Daisuke, 2003
Reconsidering Communicative Intention and Convention in Meaning:
from the Viewpoint of Theoretical Sociology

The Japanese Journal of Language in Society, Vol.6-No.1, pp.29-39

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